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ブラジル留学時代〜前編〜
成田空港を7人で出発して、アメリカ🇺🇸はロサンゼルス経由して間も無くサンパウロのグァルーリョス国際空港に到着。
初めての海外、初めての飛行機(だいぶ緊張してたなぁ)、初めてじゃない気がしたブラジル🇧🇷。
アルモニア寮の渡辺先生とパウロさんが空港までお迎えに来てくれていた。これから1年間お世話になります🙇♂️
空港から車で約1時間の道中、目にする景色がすべて宝物に見えるくらい小さい頃から夢だったブラジル🇧🇷のすべてがワクワクだった。道に落ちてるゴミさえも大切なものに見えた。
寮について、早速部屋に案内された。2人部屋で、机、ベット、タンスがあり木の床でだいたい10畳ぐらいの2階の部屋だった。ルームメイトは、愛媛県出身の同級生のSei。カズに憧れてブラジルにプロサッカー選手になるために留学に来た明るく面白いSeiとは気が合った。
他にも九州から同級生のマサ、ハヤト、滋賀からキモト、静岡は中学生のタツマ、日大三島高校先輩のミワさんなどが同時期のアルモニア4期生で、すでに2期生、3期生でブラジルにプロサッカー選手を目指している日本からの留学生が約10人ぐらいいた。ちょうど入れ違いで、元日本代表の山瀬功治も小学校を卒業してアルモニア寮に住んでブラジルで成長し、帰国して北海高校に進学して後にコンサドーレ札幌でプロになった。
間も無くして、サンパウロ州立大学(USP)というブラジルでも権威ある大学で、サッカーの教授たちが日本からの指導者向けに、サッカーコーチングコースを開講していてそこに一緒に参加させてもらった。アルモニアのサッカーの監督でもあり元U-17ブラジル代表監督、元カタール代表監督など歴任したフェルナンド(当時60歳ぐらいだった気がする)が講師だった。寡黙で紳士、多くは語らないが論理的でお茶目なおじさんって感じでとても尊敬できる方だった。
他にもサンパウロ州立大学の教授でゼカルロスやミランダなど有名な方々がコーチングコースをサポートしてくれた。特に名門サンパウロFCの練習見学やアカデミーのコーチたちの講義は大変貴重だった。日本より科学的にサッカーにアプローチされていて、今からもう30年も前なのに、ほとんどのアマチュアからプロクラブまで監督、コーチはもちろん、GKコーチ、フィジカルコーチがいて効率よく選手育成をしていた。
コーチングコースはもちろん、ポルトガル語だから古川さんという元教員で当時は千葉県のクラッキス松戸のコーチをしながらコーチングコースの取りまとめや通訳をしてくれていた。
日本から他にもジュニア、ジュニアユース、高校や大学の先生方約10名ほどがコーチングコースに参加していた。
ただ、コーチングコースのカリキュラムがない時は留学生のサッカーチームの練習に参加したり、練習試合にも出させてもらい、フェルナンドの指導を身をもって体感、体験することが出来た。
毎日の練習をメモして、この練習の目的は?何を狙いにしてるのか?自分でも考うながら、分からないことは積極的にフェルナンドに聞いた。
そんな憧れのブラジル🇧🇷生活にどんどん馴染んで行き、寮のブラジル料理(主食は豆料理のフェジョンが昼と夜必ず出る)にも慣れ基本的に何でもチア(寮の食事を作ってくれるブラジル人のおばちゃん達)の作ってくれる料理は美味しく食べられた。
また、サッカー留学生以外にも日本から来た語学留学生や大学生、日伯交流で研修に来ている人、ブラジル人の学生や社会人など様々な人種、世代の人たちが住んでいたので、食堂やそれ以外の自由時間などに仲良くなって、どんどんポルトガル語を話せるようになっていった。
週に2回夜ポルトガル語の授業があり、日系人の先生が教えてくれた。
そんなある日の日曜日。
その日はコーチングコースもアルモニアのサッカーもなくて休みだった。当時インターネットも普及していない時代だから、日本から親や友達が送ってくれたビデオを見たりCDを聴いたりして休日を過ごしていた。この日もビデオ室で4〜5人の日本人留学生とナインティナインのめちゃイケを見ていた。すると突然ドア🚪が空き、寮のおばさんとそのすぐ後ろにおばさんを盾にするように、おばさんの後ろから俺たちに銀色の銃を向けた男が入って来た‼️
『え⁉️』一瞬、何かの訓練かと思ったら、『No chão(ノ ション・・・伏せろ)』と叫んだので、本物だ!と思って、すかさず部屋にいたみんなに『ヤバい、伏せろ‼️』と言って、すぐ手で後頭部を押さえてその場にみんな伏せた。
おばさんの痛がる声や、部屋の奥で何か会話しながら物色している物音が聞こえたが、逃げるに逃げれずどうすることも出来なかった。
ちょうどTV📺からは、CMになったのか安室奈美恵の「Can you celebrate」が流れていて、(俺はこのまま結婚もしないで19歳で死ぬのか⁈)と一瞬よぎったが、(このまま撃たれるなら銃を奪って撃ち返せば助かるかも⁈)とか、いろんなことを数秒の間に考えたが、何も出来ずに伏せたまま時間が過ぎた。おそらく5分ぐらいの時間だったと思うが、30分ぐらい監禁されてた感じだった。しばらくして、バダバタとまたおばさんと一緒に2人の男(見てはないが、会話と足音などから分かった)が部屋から出て行ったが、みんな黙ったまま顔も上げられなかった。
すると、外から『お前たちもう大丈夫だ、上に上がれ!』と渡辺先生の息子のジロウさんが来てくれて俺たちを部屋から逃がしてくれた。その後はどう逃げたか覚えてないけど、気付いたら寮の最上階の女子トイレの中にハヤトと隠れて鍵をかけた。息をひそめて、ジッと隠れていると『パン、パンッ‼️』と2発の銃声が響いた。(ヤバい、撃たれた!)と初めて聴いた銃声だったけどすぐ発砲されたのが分かった。(このまま泥棒がトイレまで探しに来たらどうしよう⁉︎)、ハヤトに『もし来たら窓から逃げよう!』と小声で伝えた。
間も無くして、ジロウさんが寮内に隠れていたみんなを呼びに来た。『おーい、もう大丈夫だぁ。下りてこい。』
1Fまで下りて行くと、窓ガラスが割れていて外に番犬のチビが血を流して倒れていた。おそらく、泥棒に向かって行ったに違いない。チビは間も無く息を引き取り、泥棒は結局逃げて捕まらなかった。
数日は24時間警備がついたり、現場検証で警察が出入りしていたが、このことを親には言えなかった。ただでさえ、1人で海外に来ていてしかも日本から一番遠いブラジルに留学に来ていて、『殺されそうになったんだ』だなんて言えなかった。他のみんなはどうだったのか聞いてはないけど。
そんな経験をしたからか、人間の経験値というのは凄いと思う。街中で、警察に羽交い締めにされて銃を突きつけられている泥棒を見たり、朝車でコーチングコースに行く時に銀行の窓ガラスが割られて強盗が入った直後だったりを見ても、危ない国だなぁと思うぐらいで、いつしかやられる時はやられるし、出会う時にはまた出会う、なるようにしかならないからな、なんていうマインドになって行った。まさに『Que sera sera(ケ セラ セラ』。
今日1日を精一杯生きよう、今日1日を思いっきり楽しもう、明日はどうなってるかなんて分からないんだから。
今の俺の生きる価値観はそこから派生したものだとあらためて思った。
後に日本に帰って来て交通事故にも遭ったが、今の俺の命は生かされている命。もう死んでてもおかしくない経験を2度もしている。
有難い命を大切に世のため人のために使おう、とそんな風に思わせてくれたブラジルだった。
って、ブラジルサッカー🇧🇷⚽️の話を全然書いてないから次回『ブラジル留学時代〜後編〜』で書くよ😅