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高校生時代

高校受験が終わり、中学校を卒業して間も無く、自分から日大三島高校に電話して南谷光一監督に『高校の練習に参加したいんですが...』と直談判して、春休みの練習や伊豆長岡フェスティバルの試合に入学前に出場した。
初めての対戦相手は田中哲夫監督率いる国士舘高校だった。今考えるとこれもまた凄い縁ですが...(笑)

そして、無事に入学式を迎え1学年21クラスで3学年で約3,000人が通学する静岡県東部では1番のマンモス校。スポーツ推薦生徒で固められたスポーツクラス、一般クラス、特別進学クラスがあった。男女共学の高校なのに、クラスメイトは全員男子...まぁ恋愛目的で高校に入った訳ではないのでまったく気にしてなかった。ちなみに、俺の一つ下の代から『本当の』男女共学になった(笑)。
校舎自体が別々だから、体育の時間や女子校舎にある音楽室に行く時、昼休みに購買に行く時はだいぶテンション上がったのを覚えてるなぁ。
1年生の担任は野地先生だった。各教科に面白い先生たちがいて学校的には面白かったなぁ。
現代文の藤田先生、英語の橋本先生、体育の高原先生(あの高原選手のお父さんで高校に3で担任になる)、古文の野村先生も味があったなぁ。
で、サッカー部の方は毎朝自主練と夕方のチーム練習、その後の自主練と本当にサッカーに没頭した。先輩たちに追いつけ追い越せ、同学年でも何とか上に上がろうと練習しまくった。
中でも新庄のぶあき君にはとことん付き合ってもらったなぁ。高校に通うにも毎日チャリで一緒に通ってバカッ話したり、寄り道したり本当に青春そのものだったなぁ。俺が3年生のある時、あまり自分のプレーに自信が持てなくて落ち込んでる時に『冨田、ボール蹴ってたから行こうぜ!』と試合前に錦田小学校で練習してから試合会場に向かった記憶がある。よっぽど俺のことを心配したのか気遣いのできるヤツだった。だから理容の世界で今も頑張ってるんだなぁ✂️💈
高校2年生の時に、ブラジルの名門コリンチャンス⚽️の高校生たちが遠征に来ていて、俺の家に2泊2人のブラジル人がホームステイに来た。
アンドレとトニーだ。アンドレは左利きで大人しめだけどプレーはメチめちゃくちゃ上手かった印象だった。トニーはお調子者ですぐコミュニティーが取れて明るい性格だけど、プレーはそこそこだった。
小4からポルトガル語の本を買って、挨拶、数字、日常会話を覚えてたのもあって、初めてポルトガル語で会話出来た時は凄く嬉しかったのを覚えている。
練習が終わり家に帰って夕食食べた後、彼らと何しようかたと困っていたら、俺の部屋にあったマイケルジャクソンのCD💿をアンドレが見つけて、一緒に歌ったりムーンウォークを踊ってさたのを覚えている。
別れる時にはお互いの住所を交換し、何年かは一所懸命にポルトガル語で手紙を書いた。当時はブラジルに手紙を出すと着くまでに3週間〜1ヶ月はかかっていたと思う。
後に、俺がブラジルに留学した時にアンドレと再会するのもまた美談だけどね🇧🇷✨
そんなこんなで、高校3年生の時にはサッカー部のキャプテンになり、100人を超える部員たちをまとめなければならなかった。先輩たちから受けた悪しき伝統の『可愛がり』はやめさせ、後輩たちが伸び伸びプレーできるように環境作りに気をつけた。俺自信決して上手な選手じゃなかったから、小柄だけどボランチとして相手の攻撃を潰したり、セカンドボールを拾ったり、ヘディングで競り合ったり、基本頑張る系MFだった。
ただ、キックには自信があったのでFKやCKは結構蹴ったし、PKもマラドーナのPK完コピしてたから、今でいうコロコロPKもGKの逆を狙って蹴れてた気がする。
いよいよ、最後の高校サッカー選手権静岡県予選が始まり、1次トーナメントを勝ち抜いてベスト16に入り2次リーグに進んだ。2位以内でベスト8の決勝トーナメント進出だったが、聖隷クリストファーにまさかの3-4の逆転負けを喫し、最終戦は消化試合となったのを覚えている。
自分の中ではベスト4に入れないんだったら小さい頃からの夢だったプロサッカー選手をあきらめると何となく決めていた。
あとは、この時全国優勝する静岡学園と練習試合をした時に、前半Aチームで0-5、後半静学は11人交代してきて0-5で合計0-10で負けた時に、このレベルは努力しても追いつけないと何となく感じてしまった。後にその22名の中から7名ぐらいがプロサッカー選手になっていた。
あっという間の3年間の部活動も選手権敗退で11月に引退となり、本気でプロを目指す練習はここで終止符を打つことになった。
このまま何となく目的も夢もなく大学に行くのはただの無駄遣いだな、と感じるままサッカー部の南谷先生にある相談をしに行った...next note。

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