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今までのキャリアについて(1社目)

私のキャリアは決して華々しくないと思う。むしろ泥臭いことをしただけのように思う。でも結果として上場企業のIRやベンチャーでの成長期を経験したり、様々な職種を同時にこなしながら50名近くのマネジメントもこなすプレイングマネージャーとして自身の成果とマネジメント(部門の成果や部下の成長)を両立することができるようになったのは就活の時に決めた覚悟と1社目の苦労があったからだと思う。一度棚卸として社会人のなってからの自身のキャリアについて書いてみようと思います。かなり濃いので1社ずつ書いてみました。

就職活動の時

大学1回生は学校に行かず、2回生は休学してオーストラリアにワーキングホリデーで滞在していたので2留した状態でしかも卒業見込みが取れたのが6回生の前期終わった段階、昔は就職協定が厳格しかも超就職氷河期真っただ中、9月から就活する自分には大手という選択肢はすでになかった。

オーストラリアから帰ってくる時にそのままドロップアウトしてオーストラリアに留まるか、日本に帰って学生に戻るか悩んだことがあった。確かに自分の性格(はっきり自己主張をするところ)を考えるとオーストラリアは生きやすい国で日本では生きにくい国だった。でも日本人である自分としては自分のような人間(自己主張をはっきりできる人間)が日本で活躍できるようにすることが日本という国にとって大事だろうと生意気にも考えていた。だから大学に戻った際には必死で単位を取ることに考えをシフトして頑張った。

ほとんど選択肢のない中で募集している会社はわずか、その時代はようやく年功序列ではなく実力主義の会社が出始めた時で、年功序列で埋もれるよりは実力主義ですぐにでも役職をあげて給料ももらえるほうがいいと思い込みながら就活をしていた。しかもその当時の自分は”実力があるし雇わないほうがおかしい”というとんでもない勘違いした学生であったため、最終面接まで行けても必ず最後に落とされる(独立志向が強すぎとか自分をわかっていない子供だという理由)ことを繰り返していた。さすがに2月になっても決まていない状態で受けた1社目の会社、1次の集団面接で面接官から「この会社で働きたい人」と言われ手を挙げただけで採用されたわけですが、よくその会社も調べず、とにかく社会に出ることだけ考えて就職を決める。これが初めのキャリア。とにかく自分の自己主張ができる環境を日本に作る、そのためには少ないチャンスを必ず物にしていく。と考えて1社目の入社式に向かう。

1社目のキャリア

入社初日に集められ入社式、どうやら就職氷河期にも関わらず同期が432人もいるらしい。そもまま合宿ということでバスで田舎の温泉旅館に連れていかれ4日間の合宿が始まる。合宿はいわゆる声出しの軍隊形式(今じゃ考えられない)誰かミスすると連帯責任で腕立て伏せ(ちなみに女子はいません)ちなみに私は立候補制のリーダーになり自分のミスで5支店(60人くらい)に何度か腕立て伏せをさせる目にあう。徹底的にお腹から声を出さされ、声がガラガラの状態で何とか支店全員合格(ちなみに合格しなければ居残り)して解散

翌々日から出勤して午前中に座学で午後からいきなり実践。その後新卒同士でペアになり訪問販売を行う。はじめの座学の時にその会社の過去の歴史で1か月目で班長になり3ヶ月目で支店長になった人がいると教えられた私は、自分ならできるはずと思い込み営業活動を行う。しかし世の中は甘くない、営業を始めて3週間は成果0、4週目で初めてアポが取れ支店長に商談をしてもらい初めての契約、その後立て続けにアポが取れるようになり契約が決まっていった。

初めての商談

その会社は「先輩を見て学べ」というスタンスだったので商談を見ながら何となく話すことを覚えていた。4商談目のアポが取れ支店長と商談に向かって言っていた。そのアポは商談が決まる条件を満たしておらず決まる可能性が低いと考えた支店長はなんと私のアポより自分のアポを優先する決断をして「決まらないと思うけど商談してきたら」と言われ商談道具も何もない状況から先輩にグッズを借りて商談に向かいました。ちなみになぜ行かせてくれたのかというと、その前の商談時に全く話を聞かないご主人さんと支店長が商談をしていた隙に奥さんに対して勝手に覚えていたすべてを出して説明をしていたことがあり、ある程度できるだろうと思われた。商談前に前の商談を思い出しながら頭でシミュレーションを何度もやり商談を始めた。ただ、さすがに付け焼刃、たどたどしい説明をご夫婦で聞いてくれた。ただ、肝心なところで必ず話さなければいけないことを忘れ頭が真っ白に。たまらず「外で考えてきます」と言って外に出て先輩に電話で確認。家に戻り「思い出しました。」と意気揚々入っていったところご主人より「電話で聞いてただろ」と指摘され「すいません、実は聞きました」と謝り気を取り直して商談再開したところそんな素人さが受けて契約になってしまった。2か月目での契約は同期の中では最速で、その会社の歴史上も2番目の早さだったそうです。常に次のための準備をしていたことが役に立った瞬間だったし、営業とは”正直であること”を学べた瞬間だったと思う。また、チャンスは目の前に振ってくるかわからないから常に次の準備をしておくことがチャンスを生む要因であり、チャンスを活かす必然であることも学べた。

そのまま班長になるべく商談に臨んだが、うまくいかず2か月目という目標は達成できず、しかも変に簡単にアポが取れるようになったこともあり、サボることを覚えてしまった私は、毎日数時間だけ営業をして後はサボる日々、それでも毎月2,3件は契約になるアポを取ってくるのであまり怒られず給与もそれなり(当時の新卒初任給の2倍弱くらい)にもらって満足だった。そんな感じで年初になり支店長から「あと数か月したら後輩が入ってくるんだから、入ってきたときにまだ役職ついていなかったらかっこ悪いぞ」と言われた。すでに入社時に12人いた同期は私を入れて3名になっていたので「確かにその通りだな」と思い、その月は久しぶりに真面目に営業をしてみた(と言っても前半だけ)らなんとその月は支店の売上の3分の2を稼ぎその月の4週目は休みにしてもらえた(休みといってもお客さんのところにはいかなければいけなかったけど、この辺は今ならブラック?)。無事班長に昇格し、新卒を迎え入れることになる。

2年目

新たな新卒が入社し4名の部下を持つことになった。これが人生で初のマネジメント。背中で見せる重要性や自分が楽になるためにしっかり指導をしなければいけない、時には厳しく、時には優しく教えていても結果が出なければみんな萎えてくる、結果が出ないと一人辞め、二人辞めとだんだん減ってきた。何とか2名には成果が出てくれたのでその二人は辞めずにいてくれた、その当時のその会社の離職率は半年で60%は辞めるような会社ではあったので特に何も言われなかったが、正直自分としては無力感はあった。個人的にはそれなりの営業数値を残していたし、歩合なので給与も多かった(多い月は3桁万円の総支給)けど、何か物足りないし全く満足感がなかった。正直営業は決まったことをやるだけなので、ルーティンワークが苦手な自分としては面白みに欠け始め、その後のキャリアを考えると営業から離れてみたいと思っていた。そうなると成果も落ちていき悩みながら営業をしている時に、ふと採用責任者の人が電話をくれた。「どうした?調子悪いな、なんか悩んでるだろ?」その時正直に自分の気持ちを話すと「本社で仕事してみないか?ちょうど営業で成果を出せた人を欲しがっている部署があるから」と言われた、給与は三分の一位になるが、その時の選択肢は何かを変えたいという思いから即決で本社に異動となった。

本社での理不尽上司との出会い

本社に異動となり新たな仕事についた、営業を支えるための社内・社外広報と商品・ツール開発をする部署だった。仕事内容は面白かったし、いろいろなアイディアを自分から出せる環境はすごく自分には合っていた。後々本社に誘ってくれた採用責任者の方と、なぜ自分を誘ったのか聞いてみたら、数カ月に一度支店で本社に対してアイディアを出す機会があったのだが、そのアイディアをしっかり出していたこと、合宿でリーダーに立候補していたこと、営業で成果を出していたことなどだったみたい。結局自ら動いた結果が後に繋がっていくものだと気づかされた。

ただ、この時の上司はとてつもなく理不尽!!今の時代であればすぐにパワハラで問題になるような人(ただし身体的暴力は1度以外ない)個人的にはすごく能力はあるし、会社の方針(行動指針)を会社にで最も体現しているから正論だし逆らえない。毎日上司が帰り支度をしだすのが19時頃、そこから部下を呼び出して約1時間説教(ちなみに説教されてない人にもたまに話が降られるので片耳で聞いておかなければならない)そして仕事の指示がそこから出る。つまり20時頃から仕事の指示が出るのでその場合は完全に22時越を覚悟しなければいけない。それがローテーションで回ってくるのでいつも気が抜けない状況だった。

本社での初めての仕事

本社に異動して2週間目くらいで初めて個人的に仕事を依頼された。それはそれまで贈答品として作っていたタオルをクオリティーを下げず安価で作れという指示。そしてタウンページを渡された(現在の人にはわからないと思いますが会社の電話番号が記載された冊子)。ネットである程度見つけられる時代だったのでタウンページは脇においてネットで探す。しかし価格が安いところは見つかるがクオリティーを担保できず時間だけが過ぎる。何度も上司からせっつかれて業者と言い合いになって電話をたたき切ったことも数度、結果的に1週間たっても実現できず、「できませんでした。」と報告、上司は「そっか、そんなもんだな。まあお前には無理か。俺がやる」と言って電話をかけ始めた。「おい、クオリティーそのままで単価下がったぞ」と物の数分で実現してしまった。「どうやったんですか?」「そんなもん、今までの業者に値交渉しただけだ。発注先変えろって言ってないだろ」

そう、タウンページを渡され業者を探してクオリティーそのままで値段を下げろと言われたから勝手に違う業者を探していたのだ。上司の策略なのかわからないがすっかりバイアスにはまっていたし、そこをはっきり聞かなかった自分の落ち度でもあるし、実現できなかったことで少し自信を無くした(鼻っ柱を折られた)部分もあった。(後々この辺りのやり方が自分のマネジメントに生きてくる要因になった)そこからおとなしく粛々と仕事をこなしていっていたが、1年ほどたっていきなり呼ばれた。それはその会社最も大きな規模の新規事業プロジェクトだった。前任者の一人が異動になり、後任を探していた上司が私を指名してくれたのだ。そこから新規事業と既存業務の兼任として激務をこなす羽目になるわけですが、この時自分を指名した理由を聞いた上司は「一番初め渡した仕事あるだろ、あの時の業者とのやり取りを聞いていてこいつならできるかもと思ったからだ」と言われた。何でも全力でやっていれば見ている人は見ているものだということを実感した瞬間でもあった。

※本当はこの理不尽上司の理不尽ぶりも含めて書きたいのですが、あまりにも多く長くなりますし、かなり面白いので別で紹介したいと思います。

会社の一大プロジェクトに参加させてもらい、激務の日々や上司の無理難題をこなしていく中で本当にいろいろ学べたと思う。正直仕事中はよく小声で「死んだらいいのに」と上司のことを言っていた。たまに周りの同僚から「聞こえるよ」と言ってもらったが、「いいだよ、聞かせたいから」と言ってよく言っていた。どうしてもその上司に認められたい一心でとにかく何でもしたし、無理難題を何とかこなしていった。結局その上司とはプロジェクトの施設オープン3日前に大ゲンカをして私がその部署を離れることになった。そして自分の部署を持たしてくれることを条件にその会社に残ることにしてその後1年間は新たな新規事業の立ち上げやWEBショップの改善などをしながら部署の責任者として売上貢献をしていった。

辞めることに

当時はあまり給与を意識していなかったのだが、さすがに子供が生まれることになり、正直その時の給与では生活が苦しい状況になってきた。当時かわいがってくれた常務に「給与をあげてほしいです」と正直に話をすると「社長に掛け合ってみる」とは言ってくれたのですが、どうしても言えない、自分から言って欲しいといわれ自分から社長に嘆願してみた。基本的に給与をあげることやその他の条件も飲むといってくれたのですが、そのことを常務に伝えると、「一つだけアドバイスをする、俺も何度も社長と約束したけどお金に関しては約束を守ってもらったことはない」という言葉をもらったので転職することにしました。

今考えるとたった4年間でしたが、ものすごく働いた4年間でした。時給換算したら500円くらいかもしれません。でもその後の自身のキャリアの中で最も大事な4年間だと思います。営業(お金を稼ぐ)とは何か責任とは何かコストの重要性工夫すれば何とかなること、こんな上司にはなってはいけないこんな上司でなくてはいけない。そんなことを学べた4年間です。その後のキャリアにおいてこの時の経験は様々なところに活かすことができ、それもあって給与も役職もすぐに倍くらいまで上げることができました。毎日ぶつぶつと不満を言っていた理不尽上司と数年後に飲みに誘い、「あの時に毎日死ねばいいのにと思って仕事をしていました。でもあの時があるから今の自分がいます、今は正直に感謝しています。ありがとうございました!」上司は少し照れ臭そうに「まあ、あの時は人扱いしてなかったからな、まあ一人前の人になったならよかったな」と言ってもらえたのは良かったと思います。

仕事というものを1社目でしっかり学べたこと、チャンスをつかむために必要なこと、チャンスを活かすやり方を学べたことは本当に貴重な経験だったと思います。どんなに上司に理不尽なことを言われても絶対に折れずに自分を貫けてきたのは、3年も遅く社会人になったから絶対に同年代には負けないという気持ちと、日本で活躍するという決意があったからだと思います。

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