見出し画像

高円寺

高円寺は情緒のある町だ。情緒という単語を広辞苑に訊ねると、「折に触れて起こる様々な感情」とある。高円寺は色々な場所があり、様々な人がおり、その時々で違った表情を見せてくれる。その表情を楽しむことで様々な感情が生起される、情緒のある飽きない町だ。


南口は古着屋が多く、若者の野心のようなものを感じられる。着飾り、自分のアイデンティティを前面に出した人々が闊歩し、そういう人々が集まる。ギラギラした活気が感じられる、そういう場所だ。先を見据えた、希望のある活気を感じる。


北口はまた表情が変わる。純情商店街には多くの飲み屋が軒を連ね、酒とともにその時その一瞬を多くの人が楽しんでいる。刹那的な活気だ。また北口の広場ではまさに「今」、先を見据えずに「今」に滞留して「今」を楽しんでいるようなモラトリアムな若者がギター片手に弾き語っていたりする。かくいう自分も、酒を飲んでそういう若者と飛び入りで語らい、andymoriなんか歌ってもらったりしてその時だけの関係の宴会に身を委ねたりする。見ず知らずの間柄で刹那の共有をする瞬間に、自分もこの町の住人になったような実感を得る。良いのか悪いのか。その数メートル先では地面にダンボールを敷いて、座って酒盛りをしているおっさんの団体がいたりする。それも毎日のように。だがその風体をよく見ると、思想がこもっているというか、パンクスが着るような鋲ジャンを着ていたり、モッズスタイルの人がいたり、妙に思想とカルチャーを身にまとっていることに気づく。高円寺には二万電圧やUFO CLUBといった、昔からハードコアやパンクの゙カルチャーの最前線だったようなライブハウスがいくつかあり、そういう場所を根城にしていた人たちが高円寺に居つき、夏も冬も朝も晩も酒盛りをしているのだろうと想像する。弾き語りをしている兄ちゃんもいずれはああなっていくのだろうか。しかし、いずれの人々も楽しげにしている。他人のことを言えた身分ではないが、みんな金はなさそうだが、楽しそうなのだ。それぞれの幸せを、瞬間で噛み締めているようなカオスな北口広場が、ぼくは好きだ。


それと同時に地元密着のスーパーや、八百屋肉屋魚屋が人々の営みを支え、夕方前には煮炊きする匂いが純情商店街に漂う。どこもかしこも色々な人がおり、それぞれの生活を営み、楽しんでいることを思わせる。そんなことを考えながら、ノスタルジックな気持ちで夕方の純情商店街を歩くのも、ぼくは好きだ。ハナレグミの家族の風景をイヤホンから漏らしつつ歩く。




昼過ぎに、風呂に入ろうと小杉湯に向かう。15:20ほどに着いた。15:30オープンの小杉湯の軒先には、地元のご年配の方々が慌てるでもなく開店を待っており、続々と到着する入浴客に「今日は遅かったね」などと声をかけ、なんでもない会話を楽しんでいる。そこには確かに、人々の営みがある。

ひとっ風呂浴びて出る頃には夕方だ。缶ビールでも買って馬橋公園に行こう。馬橋公園のあそこのベンチで、子どもが遊んでいるのを眺めつつ缶ビールを流し込むのが好きだ。スピーカーでも持っていって、ミツメのエスパーでも聴こうか。魚を焼く匂いがする。


こういう時間の後にはきまってネタが浮かぶ。またバカみたいなネタができてしまった。そういう一日も悪くない。



高円寺、良い町ですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?