国葬と国民葬 くりはらつとむ 2022年9月26日 12:42 先日の拙引用リツートWikipedia/吉田茂 https://t.co/YOOo0DqFf7>1967年10月31日には戦後初の国葬が日本武道館で行われた。Wikipedia/佐藤栄作 https://t.co/4mfohEi7K4 >1975年6月16日、日本武道館で大隈重信以来の「国民葬」が行われた。 https://t.co/MeYTxgCHXM— くりはらつとむ (@t9l3pp) September 26, 2022 で、思い出したのがコレ(相変わらずワンパターンですな)。【山県と大隈】▼「国葬」と「国民葬」はどこが違うのかよく知らないが、佐藤栄作さんを悼む「国葬に準ずる国民葬」が行われた。昔も「国民葬」はあった。「大隈重信の国民葬のときは、葬儀に参加した者は反政府的だと警察にいじめられた。いまは政府の指示で国民葬をやる。世の変わりに感慨無量である」。こういう趣旨の投書が朝日新聞に出ている。▼大隈重信は天保九年二月に生まれた。山県有朋は、同じ年の四月に生まれている。大隈が死んだのは大正十一年一月十日で、山県はそれより二十二日おくれて、二月一日に死んだ。ともに八十五歳の生涯だった。山県が長州の萩で生まれ、大隈は肥前の佐賀で生まれた。この相違が二人の人生を大きく分けることになった。▼山県は長州閥という政界大山脈の頂上に君臨していた。大隈は、明治維新の主流にならなかった肥前の出身として、薩長の間を渡らねぱならないという政治力学に苦しめられた。死んだとき、山県公爵は天皇のご沙汰により国葬をもって遇せられた。大隈侯爵は国民の声で、国民葬が行われた。▼山県の国葬はさびしかった。不参者の数は多く、葬列の沿道に半旗を掲げた家も少なかった。当時の新聞は「この淋しさ、つめたさは一体どうした事だ。全く官葬か軍葬の観がある」と伝えている。山県は軍と宮中と枢密院に閥のアミを張りめぐらし、隠然たる力を持ちつづけていた。「一介の武弁」 と自称し、寡黙なスタイルで、民衆から遊離した傲然たる存在だった。▼「彼から見捨てられていた民衆は、それ故、また彼を見捨てていた。そして、彼の死に対しても冷ややかであり、無関心であったのである」(岡義武『山県有朋』)。同じ日比谷公園で、一ヵ月前に行われた大隈の国民葬は、参加者三十万人を数え、雑踏の中で盛大をきわめたものだった。▼大隈の「国民葬」には「民」があり、山県の「国葬」には「民」がなかった。(1975/6/18)「続 深代惇郎の天声人語」https://www.amazon.co.jp/dp/B000J8YAYA/ P228からさて、いよいよ明日(9/27)は、佐藤栄作さん大甥の「国葬」ですネ。それを言い出したのが吉田茂さん孫というのがまた感慨深い。(まとめ)1922年1月17日、大隈重信「国民葬」1922年2月9日、山県有朋「国葬」1967年10月31日、吉田茂「国葬」1975年6月16日、佐藤栄作「国民葬」2022年9月27日、安倍晋三「国葬」←new!※大隈と山県の葬儀は日比谷公園、他は全て日本武道館。 ダウンロード copy #国葬 #佐藤栄作 #大隈 #山県 #国民葬 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート