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それでも僕は謝らない

数年前、自分ルールに《謝らない》という項目を追加した。

「なんて傲慢な!」「無礼だ!」
そう思う方もいるだろう。
無理もない話である、ここは日本だ。

正直、私はまだこのルールに順応できていない。
謝りそうになるのを寸前で堪えているのだ。
ピュアな日本人であることを、文字通り痛感するばかりである。

そもそも、よほどのことがなければ、自分ルールなどというものは設定すべきでない。
自身の言動を制限することは、基本的に幸せをもたらさないからだ。
あくまで矯正のためのアイテムだという認識を忘れてはいけない。

要するに、私は相応の決意でもって《謝らない》というルールを設定したのだ。

謝る姿は見苦しく、謝る言葉は聞苦しい

謝ることは美徳だ、そんな言説は悪教でしかない。
謝ることは惨めでみっともないこと、それが真実である。

それゆえに、私は公衆の面前で謝りたくない。
そして、他人が謝っている場面には遭遇したくない。
共感性羞恥であるから余計である。

謝りたくないからこそ、謝らなくて済むように気をつけて行動するのではないだろうか。
謝ることを肯定してしまえば、その抑止力を放棄することになる。

《謝らない》というルールには、暗に《謝らないようにする》という言動意識が込められているのだ。

もちろん、本当に謝らなければならない状況は発生する。
謝りたくないという気持ちがあったからこそ、痛恨の思いで謝ることになるし、自然と感情も強く乗ってくる。
それだけ、謝るという行為は苦しいのである。

謝ることの価値を下げているのは

謝ることの供給が過多であることに他ならない。

意識をしてみると、我々は無意識に謝っていることに気づく。
たとえ謝る気がなくとも、言動は謝ってしまっているものだ。

「すみません」
「ごめんなさい」
「失礼します」
もはや挨拶にまで格下げになってしまった謝罪文句である。
当然これは悪いことではないのだが、それだけ日本の謝罪文化は熟成されてしまっていると言うこともできる。

「申し訳ありません」
「大変失礼いたしました」
「お詫び申し上げます」
供給過多でも文言を丁寧にすれば謝ることの価値は上がるのだろうか。
正直、自己満足でしかないと思う。
多様な謝罪文句を覚えるよりも、感情を乗せる訓練を行ったほうが、間違いなく謝ることに成功しやすいだろう。

謝ることの精度を高める

一つの言葉を口にすることの重みを量れなければ、相手がその言葉を耳にすることの重みを量ることはできない。
そしてその重みこそが、謝ることにおいては大切である。
一つの「すみません」ですら、きちんと向き合えば、価値ある「すみません」になるかもしれないのだ。

謝ることに向き合うには、精度よく謝るのがよい。
何に対して、誰に対して、どれくらいの気持ちで謝るのかを考えてみるとよい。

その結果として私は、謝るべきでない場面があまりに多いことに気づいたのだ。
《謝るべきでない場面では謝らない》
これが、正確に表現した自分ルールである。

相手に迷惑をかけていなければ、謝るべきではない。
自身に落ち度がなければ、謝るべきではない。
何より、相手が謝罪を求めていなさそうであれば、謝るべきではないのだ。

ただ、謝らないといっても一切の言動をしないわけでもない。
謝るべきでないというのは、他にやるべきことがあるとも言える。

「二度としないように気をつけます」
「この機会に覚えておきます」
もしかしたら違和感を持つかもしれないが、これは謝っているわけではない。
世間では謝罪文句が勝手についてきているだけだ。
謝る代わりに自分は何をするべきか、それをきちんと相手に伝えるのが誠意ある対応ではないだろうか。

そして、本当に謝らなければならないときには、忸怩たる思いで臨めばよい。

謝ることはコミュニケーションではない

別に謝られても、何の得もないのだ。
被害を受けたのであれば、それを補填してくれるのがよい。
信用を奪われたのであれば、どのように信用を取り戻すのか、あるいは縁を切るのかどうかが分かればよい。

謝るだけでは、パッションで自身の不利益を帳消しにしようとしているだけである。
だからこそ、私は謝ってばかりいる人間を信頼しない。

謝ること、それは果てしなく利己的な行為であることを心に刻みたい。

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