発達障害持ちが炎上する件についての一考察

トレンドに「発達障害」とあったので何かなと思って見てみたら、Twitterでさかんに行われている、「発達障害で苦しんでいたけど今は幸せになれました系エッセイ漫画の炎上」だった。

またか、よくもまぁこんなことを何度も……と思う。漫画の内容じゃなくて悪口言ってる人たちの方についてだ。

嫌だなと思ったので、以下はぐちぐちした文章が続く。なお、文章の内容そのものにはあまり関係がないが、公平性を期すため、筆者自身のプロフィールも初めに簡単に開示しておこうと思う。


・男
・20歳
・大学二年生
・一年前に発達障害(注意欠陥・多動性障害ADHD)と診断される。薬を服用したことがあるが、現在はしていない
・恋人はいない
・発達障害のことでサポートしてもらうため共生関係を築いている他者はいない


最近はSNSでも議論が活発になり、単に発達障害者に同情的な言説から「動き」が見えてきたように思う。が、その一部において、どうにも首を傾げる点がいくつかある。その風潮がこのまま絶対的な正義にされてしまうことを少しでも阻止すべく、議論の余地を残すためにこうして筆をとった次第である。


この騒動を通した「感想」を書くと、発達障害持ちが幸せになってもいいだろう、と思う。発達障害者は結婚しちゃいけないのか!  ……と、言うと、多分批判している人たちは「問題はそこじゃない」と反論すると思うのだが、そこについての言及は少し待ってほしい。

なお、以下は個人的な感想ではなく、できるだけ中立的な分析をめざして書いているつもりの文章になる。間違っている箇所もあるかもしれないので、あくまで個人の意見として冷静に読んでいただけるといいと思う。

(ちなみに、「発達障害持ちの親が子を産んで障害が遺伝してしまうこと」については、当記事では触れない。どんな親からであれ、障害を持つ子どもが産まれる可能性は根絶できない以上、個人的にはさすがにそこまで言うのは酷だろうと思うが、とにかく、ここでは別の部分について言及していく。)



まず疑問に思うのだが、この内容に「今まで他人に迷惑をかけてきたのに一人で幸せになるな」と火種を入れるのは、パワハラ肯定の文脈でしかなくないだろうか。真面目に仕事していようがミスが多かったのは事実としても、さすがに上司からここまで脅されるいわれはないはずだ。「他人に迷惑をかけたこと」の代価として明らかに釣り合いが悪い。

(疑い深い人は「本当にこんなパワハラがあったかはわからない!」と言うかもしれないが、既にこの漫画に事実として「描写」されたものである以上、そういう裏事情の勘ぐりはいくらやっても反論にはならない。そんなことは第三者が証明しようがないからだ。)

(ゆえに、この漫画の内容は完全な事実ではないと考えている人には、ここでこの文章を読むのをやめることをおすすめしたい。内容そのものはそこまで関係ないが、とにかく、当記事ではこの漫画の内容を信頼して話を進めていく。)


さて、私の立場を表明しておくと、一般に、「誰にも理解されない人生、でもそんな私も理解のある旦那に出会えて幸せ!」みたいな内容のエッセイが嫌われるのは、わかる。悲劇のヒロイン性と現実の幸福を両取りしていてズルいのと、今まさに一人で苦しんでいる読者からしたら、置いてけぼりにされる感じがあるから。「理解のある彼くん」に不満を感じる人の気持ちは理解できる。

が、たとえばこの漫画はそこをアピールしているのではない

仕事のパワハラがキツかった話をしたのだから、「結婚して仕事を辞めた」ことは大事な説明要素だし、主題は「育児をきっかけに自分が発達障害であることに気づいた」という点にあるから、結婚して子どもができたことも言う必要がある。というか、事実なんだから仕方がないだろう、と思う。エッセイ漫画なんだから。きっかけがどんな形であれ、平等に事実を描写するべきだ。

なんか、「類例」に対して条件反射的に怒っている人が多すぎじゃないだろうか。この漫画を読めば、いわゆる「理解のある彼くん」的なエピソードがほとんど登場せずぼやかされていることはすぐにわかる。でもみんな「理解のある彼くん」が嫌いなので、少しでもそれっぽさが見えたら叩き始める。

理解のある彼くんを嫌うことがいいのか悪いのかは置いておいても、これはすごく非合理的な行為だ。初めに言及をあとにすると書いたのは、この部分の、「自分の怒りの出処を勘違いしている人」のことである。問題はそこじゃないと言うが、じゃあ、どこなの?

きわどいのは、こういうパブロフの犬の方がかしこそうに見えることだと思う。人は幸せな人間を肥えた愚者、不幸な人間を貧しい賢者と思い込む傾向があるからだ。幸せな人間を叩いている不幸な人間がいたら、後者の方が一見正しいように映る。

が、本当にそうなのだろうか?  その先入観に従って相手を見下す、不幸な人間こそ、真の思考停止に陥っていないだろうか。というか、そもそもあなた方って全員そんなに不幸な集団なんだっけ?  みんなが嫌いなものをとりあえず叩いてる人も混ざってますよね。


「私が悪い訳じゃなかったんだ」という表現がある種開き直りに見えるというのは、まぁわからなくはないわからなくはないが、そんなに額面通りに受け取る必要があるだろうか。これは既に当人が説明している通り「過去の自分が、自分なりに全力だったことの確認」でしかない。

確かに語弊のある言い方かもしれないが、こういうエッセイ漫画の多くが「同じく発達障害で悩んでいる人/健常者だがこれから発達障害の事情について理解する余地のある人」に向けられているものであることを考えれば、多少力強い言葉を使うのはごく自然なことではないだろうか。このフレーズは他者に勇気を与えるため/理解を促すために採用されているのであり、もしあなたがこの部分を読んでいらだちを感じたのなら、それはもう単なるNot for youなのだ


あと、最近は「自分も発達障害の当事者だから言えますがこれは甘えです」的なツイートも目立つようになってきた。これも変だと思う。

直接当人と同じ事象に関係している人のことを「当事者」というのであり、ここまで解釈を広げてしまうと我田引水としか言いようがない。こういうことを言う人が過去にパワハラを受けていたかわからないし、仮に受けていたとしても、そこで感じる恐怖には個人差がある。当たり前だが、同じ障害を持っていたところで同じ人間なわけではないのだ

仮に「発達障害者特有の甘え」なるものが存在するのであれば、「同じ体験をしたわけでもない他人へ、頭ごなしに自分の経験談を押しつけてしまえる想像力の欠如こそ、発達障害者特有の甘えである」という反論を許してしまう、のではないかと思うのだが、どうだろうか。部外者は批判をしてはいけないとは言わないが、ただの第三者が当事者の顔をするのは、無理があると言わざるを得ない。


また、この「発達障害特有の甘え」に近い話で、最近「発達障害者はその障害のために他者と適切なコミュニケーションがとれず、そのため福祉する側に感謝もしない恩知らずになることが多い」という言説が目立つ。

これは、実際にそういう場合がある。私自身も覚えがあるし、それが発端となって起きた民事/刑事事件も枚挙にいとまがないだろう。ただ心配なのは、これは言っておけば論破できた気になる無敵のカードでもあるということだ。

確かに、一緒に過ごしていて不満が募る場合はあるだろう。しかしこれは穏便に対話/交渉可能な他者を相手に言うことではない。本来、社会的な福祉の問題として真剣に考えるべきなのは、本当にこちらの言うことを一切聞いてくれない人にどう尽くしたらいいのか、という問題だ。

個々人で解決できるはずのことは個々人で解決すべきである。もし当人間で相談が足りないまま、差別という最も簡単な拒絶の方法に陥ってしまったのであれば、コミュニケーションを怠っているのは発達障害者だけではない。正直、このカードが切られる時は、往々にしてちょっと論点がズレていると思う。


以上が私個人の意見になる。どうだっただろうか。できるだけ公正な展開をめざしたので、落ち着いて読んでいただけていれば幸いに思う。

最後に、私がこの文章を書きながら出した結論を述べておこうと思う。上記のうち、要旨をまとめるとこの4点になる。


①実際に描写されていることの裏を読んで怒るのは理不尽である

②逆に、その人がどんな意図でその表現をしたのか汲み取って理解することも、時には必要である

③同じ立場にあるからといって正しいことが言えるとは限らない(なぜなら体験には個人差があるから)

④新しい言説を取り入れる際は、ただ論破することをめざすのに終わるのではなく、その言説が適用できる範囲を慎重に確かめるべきである



この4点は、もちろん、発達障害以外の議論にも変わらず言えることだ。逆に言えば、それはこの問題の本質が「発達障害の特性」とあまり関係ないところまで広がっている、という証左なのではないかと邪推してしまいたくなる。


個人的に、「過去に不幸だった人が幸せになるのが許せない」という嫉妬は理解できる。内に留めておく分にはそうした感情も存在すべきだろう。論理性や公平性はいったん度外視して、そう感じてしまうものは仕方ない。

だが、いま幸せな人間はいま幸せな人間でしかないし、いま不幸な人間はいま不幸な人間でしかないし、相手はあなたの同属なんかではなかった。残酷ながらこれが現実である。

各人がどう言おうと自由だとは思うが、自分が正しいと思いながらいたずらに他人を攻撃することで、こういう残念な風潮を形成するのは、どう考えてもすぐにやめた方がいい。あなたのためにやめた方がいいのではない。あなたに傷つけられる他者のために、やめた方がいいのだ。第三者だが僕は傷ついた

この文章の中で最も間違っているかもしれないことを声高に言ってしまうが、いま発達障害者を真に苦しめているのは、周囲の無理解などではなく、各人の純粋な性格の悪さなのではないのか。上記のことを読んで「なんでこっちがそんなに寄り添わなきゃいけないんだ」と思う人もいるかもしれないが、寄り添わなければいけないのではなく、遠くから攻撃しなければいいだけなのだ。あの4点を通り越してミサイルを飛ばす以上、自分の発言には責任を持つべきである。

発達障害を持つことから生まれる苦しみと、「嫌われるべき人間」にカテゴライズされることが生む苦しみは、違う。そして現状のSNSを俯瞰している限り、おそらく後者の方が強いだろうということを指摘して、この文章を締めくくろうと思う。



以上です。勝手にツイート貼って言及してしまい申し訳ありません。
問題があった場合や、自分にとって精神的に不利益が大きいと判断した場合は、当記事を消去させていただきます。

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