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「民藝の100年」を観て思ったこと

国立近代美術館で開催中の「民藝の100年」を観てきました。
民藝とは「民衆的工芸」の略語で、民藝運動は1926(大正15)年に思想家の柳宗悦、陶芸家の河井寛次郎・浜田庄司らによって提唱された生活文化運動です。

大量生産の工業製品が浸透していく時代、近代化=西洋化という流れに警鐘を鳴らし、日本各地の手仕事を見直し「用の美」という価値観を提示。

名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「健全な美」として
収集・展示、出版物などを通して世の中に発表していきました。

展示内容は充実していてたいへん満足しましたが、草履や下駄が取り上げられていないのが、ちょっと不思議でした。
たとえば下駄などは民藝の定義にはすべて当てはまると思うのです。

民藝の定義

1.実用性 鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたものである。
2.無銘性。特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたものである。
3.複数性。民衆の要求に応えるために、数多くつくられたものである。
4.廉価性。誰もが買い求められる程に値段が安いものである。
5.労働性。くり返しの激しい労働によって得られる熟練した技術をともなうものである。
6.地方性。それぞれの地域の暮らしに根ざした独自の色や形など、地方色が豊かである。
7.分業性。数を多くつくるため、複数の人間による共同作業が必要である。
8.伝統性。伝統という先人たちの技や知識の積み重ねによって守られている。
9.他力性。個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、目に見えない大きな力によって支えられているものである。
(詳しくは日本民藝協会HPで)
https://www.nihon-mingeikyoukai.jp/about/purpose/

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下駄が履物でなく使われるのも…

柳宗悦が生きていた時代に和装履物はあまりにも当たり前で、収集するまでもなかったのかも。また当時は今ほどいろいろな種類がなかったともいえます。

一方で、囲炉裏に架ける<自在掛け>や舟に溜まった水を汲みだす<垢取り>などがオシャレなオブジェとして飾られた感覚で、下駄が「使われなくなった道具」として、履物でなく別の用途に使われるのもちょっと違うなぁと思ったのでした。

とはいえ和装履物、とくに塗り下駄は職人の高齢化・後継者不足が深刻です。
塗り下駄といえば駿河塗りです。
美しい塗りのさまざまな技法があります。
以前、静岡の「塗り下駄組合」の皆さんにお会いしてお話しを聞いたことがあるのですが、「子どもには継がせない」と口をそろえて皆さんおっしゃいました。

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昭和の高度成長期はおそらく一つの工房がたくさんの職人さんを抱えて、徒弟制度のような感じで下駄を作っていたのでしょう。
それが一時期、人件費が安い中国に工場を作って、下駄を製造するメーカーが増えていきました。
ところが下駄の需要はなくなり、中国の人件費が上がって採算がとれなくなります。しかしながら、その間に国内の職人はほとんどいなくなり、収入が低い手仕事を次世代に受け継ぐこともできなくなってしまった。
現在、かろうじて国産の塗り下駄は仕入れることができていますが、中にはもう作れなくなった種類もあります。
たとえば七五三の御祝い用の「蒔絵ぽっくり」。
蒔絵を描く職人さんがひとりもいなくなってしまったので、もはや新しく作れなくなりました。

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今の若い世代は伝統工芸に興味を持つ人も増えてきましたが、“作家”にはなりたいけれど自分の名前が出ない職人仕事はやりたくないのだと思います。
そうなると“ふつうの塗り下駄”を作る職人はいなくなります。
遠くない将来、“作家物”しかなくなってしまったら、塗り下駄派今の10倍くらいの価格になり、実用品としては残らないかもしれません。
そして塗り下駄だけでなく、かつて層が厚かった日本の手仕事は、すべて手の届かないものになってしまうのでしょうね。

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