映画「隣人X 疑惑の彼女」の感想
原作は未読。
これはコミュニケーションにまつわる映画なのかなと思った。
ミスコミュニケーション、ディスコミュニケーション。
没交渉、認識の相違、意思疎通の放棄や拒否。
言語でのコミュニケーションは、同じ言語同士であっても難しいところはあるし、ましてや異なる言語同士では意思疎通が不可能ではとも思わされる。
そこに絶望する人もいれば、それでもなお希望を持ち続ける人もいる。
劇中でXと呼ばれる地球外生命体は、人類に擬態できる性質を持っている。
人類に危害は加えないと言われているものの、その詳細は明らかになっておらず、不安を煽る報道も数多くある。
カミングアウトしているXの数は少ないらしい。迫害や差別を恐れてのことだろう。
うっすらとした疑心暗鬼が皆の心を覆っている。
主人公の憲太郎(契約社員の雑誌編集者)は社内的立場が弱いため、上司とうまくコミュニケーションが取れない。
主人公の祖母は痴呆症を患っており、孫とのコミュニケーションが取れない。
Xの「容疑者」のひとりである良子は、父親と長年にわたって疎遠になっている。
父親は自分に関心がないのだと良子は思っている。
良子のバイト先の同僚であるイレンは、学業のために台湾から日本にやって来て、日本語を練習している。
日本語はなかなか上達せず、それゆえに日常生活や仕事先でさまざまな苦労をしている。
それでも自分のことをいろいろ気にかけてくれる拓真のことを好きになる。
言葉はうまく通じなくても、2人の間には互いを理解しようとする力学が働いているようだ。
取材の意図を隠して、憲太郎は良子に近づく。
社内での立場の悪さを自覚し、祖母の治療費(介護施設の使用料)を稼がねばならないという焦燥感にも駆られ、そんな自分に罪悪感を覚える憲太郎。
憲太郎の優しさを感じつつも、完全に心を開いていないであろう憲太郎に不安を覚える良子。
言えること、言わないこと、言いたくないこと、言いたくても言えないこと。
失われた言葉、言葉にできない思い、言ったらすべて終わってしまうこと、言わなければ始まらないこと。
たくさんの言葉がスクリーンの中に浮かび、時には消え、時には残り続ける。
映画の中に数多く登場する食事のシーン。
そこにはいつも「一緒に食べてくれる誰か」がいる。
誰かが誰かのために食事を作り、誰かと一緒に食べたり、大切な人に食べてもらったりする。
食事もいわばコミュニケーションなのだ。
相手が作るものを食べるということは、信頼関係がなければ成り立たない。
良子の家で、憲太郎と良子が一緒に食事をする。
自分が愛する祖母と同じ味を、良子が作る食事の中に見出す憲太郎。
体調不良で寝込むイレンの家に拓真がやって来て、水筒に入れたスープを手渡す。
子供の頃に親が作ってくれたスープと同じ味だと涙を流すイレン。
映画の終盤、さまざまなコミュニケーションが暴走し、築かれたはずの絆が脆くも崩れ去りそうになる。
Xであること、Xでないこと、そのことにどれだけの意味があるというのか。
目の前の相手を信用する以外に、コミュニケーションが成り立つ術はあるのだろうか。
類型的なラストにはちょっと不満があるし、良子の父親はいくらなんでも言葉が足りなすぎるとは思う。
とはいえ、作り手側がコミュニケーションに対して絶望していないからこそ、こういう展開になったのだろうと理解はできる。
分からないから不安になる。分からないから知ろうとする。
すべてを言葉にするのは難しいだろうけど(そうすべきだとも思わない)、自分の思いを伝えること、相手の思いに耳を傾けること、それを繰り返すしかないのだろう。
SF的な設定ではあるけれど、普遍的なテーマを扱った良作だと思う。
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