忘れていた自己紹介
自身を客観的に見るのは苦手だ。でも忘れていた。みんなに僕は何者なのかを伝えること。
1974年、昭和49年生まれ、現在46歳、今年で47歳になる。
生まれは滋賀県、生後すぐに大阪へ。実家は日本一長い商店街で有名な天神橋筋商店街から少し東に行ったあたり。実家は洋食屋、よく言うとステーキハウス、親父はオーナーシェフだった。今は悠々自適に日々を楽しんでいる。親父は大阪育ちで、小学生あたりから今の道頓堀の川の側に家があったり、大阪ミナミのBIG STEPが中学だったり結構ド真ん中で育ったそうな。
母親は滋賀県出身、野球が得意でとにかく都会が好きで大阪に嫁いでからは実家には帰りたくないといった感じの都会好きだった。母は5年前の春に膵臓がんで他界した。時って早いなぁとつくづく思う。
僕は外資系企業(欧州本社)に所属している。コロナ禍で非常に大きなダメージを受けて未曾有の危機といった感じだ。
事業のポートフォリオをプランニングしたり、構築したり、本社と議論したり、交渉・折衝したり、コロナ前は毎週のように電話会議やメールのやり取り、出張にもちょくちょく行っていた。
2014年の夏から自宅の大阪を離れて、東京都内へ単身赴任、6年目を迎える前にコロナ禍になり、大阪の自宅で家族と過ごす日々が続いているが、とても毎日ハッピーだ。中学生になったばかりの長男と小学校3年生の長女と昨年まで約6年間1人で家を支えてきた妻と4人で暮らしている。
僕の実家の話に戻る。
なんとなく記憶にあるのだが、梅田の街をまだよちよち歩きがようやく慣れて来た頃だったと思う、親父が外国人の人と精一杯英語で話していた記憶がある。暗い路地にネオンサインが印象的だった記憶がある。
母親がその後に、「お父さんすごいやろ?あんたも英語話せるようになったらええわぁ。」
その時は映画館で映画を観た後に路地を歩いていたらしい。
今思うと、この時、この瞬間だけは憶えているし、この時から僕の映画と英語好きな人生がスタートしたのかもしれない。そこからはとにかく映画が大好きになり、スター・ウオーズとブレード・ランナーはもう当時のVHSのビデオが擦り切れるくらい観た。
中学から英語を学校で初めて学び始めたが、この科目だけは本当に好きだった。当時の記憶だが、中学に入ってから2回目のテストまで満点続きだった。高校も国際科というそれはそれは英語の授業が多い高校に通い、2年の夏は修学旅行と引き換えに米国シアトルへ3週間語学研修に行ったのが初めての海外。もうその時から頭の中は海外の大学で学びたい。それしかなかった。
運も味方して1993年単身で渡英。4年間を英国の大学ですごした。
過ごした、が、ほとんど寮の自室→授業のあるレクチャールームかセミナーのあるセミナールーム→図書館→夕飯→図書館、図書館。たまに自分の部屋が図書館かなと思うくらいたくさんの書物を読んだ。
最初は文学部を専攻していたが、無理だった。英語が古文みたいでさっぱり分からなかった。泣くような思いで教授にお願いをして、近代史を専攻することにした。大学生だったが、産業革命とか英国史、2つの大戦と政治イデオロギーとか東西冷戦とか大好きだった。皆さんは今のドイツの首都、ベルリンが東西に分断されていたのをご存知だろうか。当時の日本がどの国と手を結んで何をしていたのか。フランスのノルマンディーで連合軍の兵士がD-Dayと呼ばれる日に何人の命が失われたのかご存知だろうか。そもそもなぜ第二次大戦が起きたかご存知だろうか。ヒトラーとスターリン、どっちが人類史上迫害や虐殺を多くしたかご存知だろうか。
歴史は繰り返される。国家が形成され、言葉もそれぞれ違い、文化や社会も違う。近代史において最も悲惨な事が起きた欧州に1993年〜1997年まで過すことが出来たのは今でも僕の財産の1つでもあり、妻や子供たちの前で唯一自慢できる事だ。
僕は商売人の家に生まれ、贅沢も特に無かった両親のもとで育ち、僕がしたいままの学生時代を全面的にサポートしてもらった。
歴史は繰り返されて、今いろんな人がこれまでの生活、社会、経済、において変化している中、僕も当時の親父や母親のように子供たちのこれからを注意深く見据えて、世界の、世の中の変化を様々な情報やコメントや価値観を経ながら同じような局面を迎えているのかもしれない。
やっぱりダメだ、自己紹介になっていない。キリがない。また社会人になってからの僕のストーリーは続く。今日もお読み頂きましてありがとうございます。
追伸
今日のフォトはted2lasvegasさんの作品。早くまたロンドンに行ける日が来ますように。今日もクリエーターさんに感謝。