敗北宣言
留学から先月帰ってきた。マルコポーロが「黄金の国ジパング」と言うだけあってこの国は美しい。とにかく素晴らしい。帰ってからの暫くは幸も不幸も理想的なことやあらゆるリアルな出来事を考えた上で申し訳ないほどの多幸感を享受している。それはただご飯が美味しいとか物価が安いとか視覚的、みんなにわかるような簡単なものではなく、「居場所」だったり、「好き」だと思えるものに囲まれている精神的な、個人的なものとして。
帰ってきてから息つく間もなく就活が始まった。とはいえ、まさしく就活と言ったようなリクルートスーツで面接をし、一喜一憂している立派な程度の数ステップ手前のおそらく1番初めに行うであろう「リクルートスーツを買いに行く」だったり、大学だったり友達に「まず何をしたらいいのか」を相談すると言う誰でもこなせることしかまだしていないのだけれど。
昨日、藝大生である友達の制作展を観に行った。1人で大学を回っておおよそ全ての作品を観た。どれも同世代の選りすぐりの天才達の作品。私は無知そして考え込んでしまう性格故にどの作品も理解したい、理解しなければいけないと思いながら観ていたのだけれども、一向に理解できないしできる余地も見出せなかった。例えば、本来の英題をそのまんま思い出せないのだけれど、これ自体とても野暮でナンセンスなことなのかもしれないけれど、邦題に訳すと「醜さとの共存」と言うようなタイトルの作品があった。でもその作品のどこが醜さでどこが共存を表しているのかが全く私の丸くない知見のない平たい世界では理解のしようがなかった。また、途中で私が観ている横で藝大生とその先生みたいな2人が話をしていて、藝大生が「作品を理解しようとしすぎても良くない」と言う話をしていた。きっと芸術というものは作り手と受けての間にそれなりの解釈の余地があってきっとそのそれなりにある余地のゆとりを私は全く考慮できていないんだと思った。その時点で私は何かこの大学にいる全ての才能ある人達にどこか負けてしまった気がした。そしてそんなことを一つ一つの作品で考えていたものだからすごくエネルギーを使ったし、自分の才能というか感受性の敗北と欠如を実感し悲しくなってしまった。藝大生からその作品についての解説をしてもらうとより一層、私に「この創造力を持てるのか」や「そのイメージを具現化できるのか」と言った新しい卑屈な自問自答が生まれていくばかりでどんどん悲しい方向に行ってしまった。この人たちは才能のまますごい作品を作っているのに、私は外国語と言ういわば誰でも利用できるものをなんとなくの気持ちで学んでいて何になるのかと顧みてしまった。
誰しも幼い時からある程度才能があると勝手に思い込んでいるはず。多分。私で言うと、小学生の頃は本気でサッカー選手になりたいと思って毎日公園で他の人が上手くならないように1人で練習していたし、高校になると、憧れているロックスターみたいになりたいと思って部屋に篭ってベースを練習していた。でも歳を重ねるに連れて将来の視野みたいなのは現実的と言うフィルターを通して見てしまうが故に狭くなってきてしまう。私は天邪鬼な性格もあってずっと現実を受け入れるというか才能の欠如を受け入れる瞬間は就活をすることだと勝手に思ってきた。きっとそれは自分の才能のなさを認めて周りと同じように就職をしてリスクを背負ってまでやりたい事をすることを諦めることだと思ってきた。絶対に就活をする事は自分にとって有益な事であるしよくないわけない事なのだけれども、自分の才能を信じてきたであろう藝大生を見ていると私には敗北宣言をしないといけない1番悲しくてグロテスクな瞬間が来てしまったのだと思う。絶対にこれからは有益だし間違えてることなんて何一つないしそれなりに明るいんだろうけどね。
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