AIで写真の価値はなくならない?のか?
CP+、始まりましたね。
僕は写真も撮りますし、動画も好きですし、カメラも買っちゃいます。
会場には足を運んだことはありませんが、コロナになってからオンラインで参加できることもあり、毎年気になった講演などは聞くようにしています。
本日初日で、唯一見た講演でちょっと疑問に感じたことがあったので、備忘録として書きたいと思います。
写真の価値は高まる?本当に?
はじめに、仕事の最中に耳だけ聞きつつ、しかも途中から聞いたのもあって、もし僕が完全に講演内容を理解できていなかったら、大変申し訳ありません。
その前提の上で、講演の中で、次のような説明があったと思います。
正直、今の僕レベルの知識・経験では、全く共感できませんでした。
確かに、生成AIにおいて、既存の写真から学習をして、それを元に生成することはあると思います。中には、今までにない、斬新で、唯一無二で独自性大爆発な写真がAIの学習に使われることもあるかもしれません。
しかし、その学習の対象となるデータは、ストックフォトの中おろか、もっともっと、もっともっともっと膨大です。
その中で、生成AIの学習となる写真を撮れる人はどれくらいいるでしょうか。
そして、仮に生成AIの学習となった写真を撮れたとして、そのような写真を連発できる人は?はたまた、そんな写真はAIが真似できる中で、その人がどう安定的にマネタイズできるのでしょうか?
組み合わせることで新たなクリエイティブを作ることが圧倒的に人間よりも大得意なAIに常に勝ち続ける人間はいるのでしょうか。
今の僕のレベルでは、それらに答えが見つけることができず、CP+という写真を、動画を、そしてカメラ文化を発展させていく祭典においては、言葉を選ばずいうと、無責任ではないかと直感的に思ってしまいました。
そんな中で撮るべき写真とは。
とはいえ、唯一あるとすると、ストックフォトという面では、最新のトレンドを常に追えるか、が勝負になってくると思いました。
ただ、それは、季節の先取りレベルではなく、社会の情勢とか世論とかを見越した、株を一発当てるくらいの先見性が試されると思います。
なぜなら、AI側は、クリエイティブの掛け算でつくれちゃうので、むしろ季節にあった写真とか、ちょっとしたもの同士の掛け算なんか大得意だからです。
今後、ストックフォトはかなり厳しくなるし、属人性が必要なくむしろ汎用性を求める広告クリエイティブを作る際には、意義はなくなっていくんじゃなかろうかと思います。
やっぱり背景
となると、写真にいても、生成AIにおいても、注目されるは、何度言ってもプロセスではないでしょうか。
写真ならば、その写真を見た人が、そのときの雰囲気を思い出したり、その日を思い出したり。写ってないところをいかに感じさせられるか。具体的には、余白なのか、光(その日の情景を思い出せる)なのか。
さすがに、家族の写真を生成AIで作る、というところまでは、まだ僕たちの生活に生成AIは馴染んでいませんし、その文化が根付くにはだいぶ時間がかかると思います。
写真を撮った日の記憶が、その写真を見返すと蘇ってくるような写真は、存在意義があると思います。
そして、一点この講義で興味深かったのは、次の内容。
つまり、生成AIの画像と人間が写真で撮った画像の見分けがほぼつかないが、そこに人間味や想いがあるかを知りたいということかと。
逆にいうと、生成AIだとしても、その作られる過程に人間味があったり、共感できる背景があったり、はたまた自分がそこに関与しているという一体感があれば、それは認められるものになるかもしれません。
生成AIはまだまだ勉強中ですが、アウトプットではなく、プロセスに注力した生成AIがどのような反応になるか、実験してみたいなーとも感じました。
さいごに
すみません、自分でも書いた文章をみながら、雑な文章だし、偉そうになんやかんや書いてやがんなーと感じていますが、せっかく書いたので、このまま残させてください。
講演をされる方々は、日々の業務がある中で、膨大な準備をされたり、本番も緊張されたり、そんな中で、情報をいただけることに感謝していることが大前提です。
生成AIはまだまだ法整備やいろんな面で発展途上だと思いますが、まさにそんな時こそ議論をして、意見を出して、訴訟が起こり、人々に浸透していくものだと思っています。
生成AIを少し勉強し初めて、もっともっと写真が好きになってきた今日この頃。
もっともっと自分の興味を尖らせて、もっともっと楽しいこと、見つけたいです。
それでは、三連休、いってらっしゃい。
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