【後書き③】執筆を支えてくれた音楽~執筆中編~
※この文章は2023年5月刊行の小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』の後書きです。
執筆する時はいつも音楽を聴いている。というか音楽は欠かせない。
そもそも僕にとって「現実世界」と「物語世界」の間には、雨上がりの通学路にできた大きな水たまりぐらいの距離があいている。
だから以前は執筆を始めようとするたびに、結構な集中力を使い、えいっと向こう側へ飛び移る必要があった。
もちろんうまくいかないこともあって、水たまりに足をつっこみ、靴下まで濡れたあげく、すごすごと引き返すことも多かった。
そんな時、たまたま音楽を流しながら執筆に向かってみた。
すると、あら不思議。
なんの気負いもいらず、物語の世界に入っていくことができたのだ。
まるで水たまりに小さな架け橋がかかったように。
それ以来、パソコンを開く前にイヤホンをつけるのが日課になった。
曲の再生ボタンを押し、ようやく文字を打ち始める。
途中、意識が脇に逸れそうになっても、まるでボーリングのガター防止バンバーのように、音楽が進むべきに世界に軌道を戻してくれる。
しかもいったん物語の世界に入り込めてしまえば、音楽の存在を忘れるくらい没頭する。正直、書いている最中は音を認識していないことも多い。
恩知らずも甚だしい。
それでも音楽は、すねることも愚痴ることもなく、僕を支え続けてくれた。
もはや、音楽に足を向けて寝られない。
というわけで、僕の恩人もとい恩楽を紹介したい。
まずは、haruka nakamura さんのピアノソロアルバム『スティルライフ』と『スティルライフⅡ』だ。
特に後半の執筆は、幾度となく助けてもらい、スティルライフの曲たちなしでは小説を書き上げられなかったと心底思う。
この『新しい朝』と『光の午後』は、音の粒と粒の間に、始まりの予感が詰まっていて、お気に入りだ。
それも、これから一日を始めるぞ、というよりは、カーテンを開けてみるともう新しい朝がやってきていたことに気づくような、まったく押しつけのない「始まり」がこの曲にはある気がする。
だから、億劫な執筆のスタートにはぴったりの曲なのだ。
一文字も書いていなかったとしても、書こうとした時点で、もう始まっていることに気づけるから。
逆にこの『灯台』という曲は一日の終わりによく聴いていた。
すべての楽器(声も含めて)が、僕には祈りに聴こえる。
届くかどうかはわからないけれど、相手(世界)を想い、祈る。
エビデンスが重要だと叫ばれるこの社会で、祈りはとても無力に見えたりする。けれど、数字では表せない、報われる確約のない未来に今を注ぐことは、意味のある行為だと思うのだ。
この曲を一日の終わりに聴くと、書いては消しを繰り返し、まったく前に進めていないように思える今日の自分を、少しだけ認めてあげることができた。
最後は小瀬村晶さんの『春の光、夏の風』のピアノバージョン。
この曲は僕の中で「ザ・青春」のイメージだ。爽やかで、軽やかで、切なくて、少しほろ苦い。
もともと『おかげで、死ぬのが楽しみになった』は高校生の青春群像劇をイメージしてプロットを作っていた。
それがなんの運命のいたずらか、全員70歳の群像劇になった(自分で決めたのだけれど)。当然、設定から物語の結末までがすべて変更となった(完全に自分で決めたのだけれど)。
ただ唯一貫いたのは「青春」というテーマだった。主人公が全員70歳だからこその青春が描けたら、面白い物語になる。青春を若者だけの特権にしてたまるかという、謎の使命感に燃えていた。
なので、物語の中で青春感がほしい場面ではこの曲を聴いた。
春風のようなピアノにのせて70歳のおじいちゃん達が躍動する姿を想像しては、そのアンバランスなかっこよさに口もとをゆるめ、筆を走らせた。
音楽によって、想像をより高く飛ばすことができる。
それを体感できた曲だ。
とまあこんな感じで、執筆中はボーカルや歌詞のない曲を好んで聴いていた。書きながら頭の中で文章や会話を再生するので、インスト曲の方が相性がいいからだ。
逆に机に向かって執筆している以外の時間(アイディア出しという名の散歩タイム)では、俄然ボーカル入りの曲をよく聴いていた。
その曲達は次回の【後書き④】執筆を支えてくれた音楽~散歩編~で紹介したい。
photo 遠未真幸