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良い写真とは何か・・その2(文学や書道と比較すると写真の意味がわかって来た。)

はじめに

 まず、この話は、良い写真とは伝わる写真である、ということが前提の議論であることを、述べておく。
 では、伝わる写真は全て良い写真なのか、というと必ずしもそうとは言えないだろう。
 何が伝わったのか、その伝わった内容次第で良し悪しが決まると思うのだが、いずれにせよ伝わらなかったら始まらない。

伝える手段と写真の関係

 自分の主義主張を相手に伝えるとき、何を使えば良いか。手っ取り早いのは言葉である。それを写真でやろうと言うのだから元来無理がある。
 言葉は物事を定義できるが、写真はイメージだから物事を定義するには、やや迂遠である。しかし、時にはイメージが強烈な印象を見る者の心に刻み込むことは、誰しも経験してはいないだろうか。

<小説と写真>

 イメージを使って他人に事を伝えようとする行為を、文学、例えば小説と比べてみよう。

 小説家は、とあるテーマの下、なんらかの思想を文章によるもの語りを通じて、読者に伝える。その小説は、万年筆であるいは鉛筆で文字を書いて作られる。最近はパソコンのワープロ機能での入力が主でしょうか。まぁそうして書き上げた小説がヒットするか否かは、読者に小説家の思い、小説のテーマ、などが伝わり、読者が感動するか否かであろう。
 ただ、その時、その小説家がどのような筆記具を使い、どのようなパソコンを使い、そしてどのように文字を描いたか、美しい文字であったか汚い文字であったか、きれいなフォントを使ったのか、などはまったく小説の良し悪しに関係はない。
 そもそも、販売されている本には、そのような情報は反映されていない。すなわち、小説の良し悪しは、小説のコンテンツ、内容そのものに関わる問題で、文字の美しさは問題ではない。

 これと写真を比べてみよう。一見して写真自体が小説に該当するように見えてしまう。しかし、もし良い写真というのが「伝わる写真」だとするなら、何を伝えたいか、それが問題。伝えたもの、作者の思いだとか、テーマだとか、作者が、撮影者が思い描いたコンテンツ、それが写真と言うメディアを通じて見るものに感動を与えたとき、それは良い写真と言うことになる。

 そうであるなら、小説に該当するのは、撮影者が想い描いた伝えたいこと・・写真から読みとって欲しいメッセージやテーマ、そして、カメラは筆記具、万年筆やパソコンと同じ。カメラで写した写真自体は、文字。写真に写っているイメージ、写真自体は文字と同じレベルのメディア。撮影者が伝えたい事を伝えるために用いるメディア。
だから写真自体の巧拙で写真の良し悪しを判断する事は必ずしも正しくはない。撮影者の伝えたいことを伝えるために、必要に応じてきれいな写真を使うこともあれば、下手な、実に醜い写真を使うこともあるだろう。

 こうしてみると、写真の良し悪しは、伝えたいことが伝わるか、そして伝わったコンテンツに人が感動するかどうか、に関わってくる問題であると言うことになる。
 ところが現実では、やれどのカメラがいいかとか、どういうレンズがいいかとか、そういうことばかり取り上げられている。小説家の方々、書き味の良い筆記具を選ぶかもしれないが、良い小説を書くのにこの筆記具じゃなきゃだめだとか、そういうことの議論を果たしてするだろうか。

<書道と写真>

 こんなこと考えていたところ、とある喫茶店で書道家の先生に出会った。私が写真を撮っていることを知って、「写真って書道に似ていると思う」と言う。そこで、咄嗟に、私「そうなんですよ、写真って書道の文字と同じで、小説の文章を組み立てる文字と同じ働きをするんですよ」・・と、上記の小説との比較を説明した。


小説と写真と書

書道では、筆により描かれた文字の形態により、さまざまな感情なりが湧いてきますね。写真も同じ。単に綺麗な文字、綺麗な写真だけでは感動はしない。そこに込められた何かが見る者の心を動かす。小説は伝えたいことが比較的明確だが、写真や書ではかなり曖昧となり、見る者側の解釈に委ねられる。

<カメラと写真の関係>


 さて、以上のように、良い写真=伝わる写真だとするなら、本当に重要なことは、綺麗な写真を撮ることではなく、伝える手段としてどういうイメージの「写真」を撮るかということになる。

 ようやく、カメラはいくら変えても良い写真は撮れない、と言うことに気がつくこの頃である。
 カメラは撮影機会を提供するだけのものである。

> カメラの選び方

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