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表現手段としての写真の世界の特殊性?・・文学の場合と比べてみた

以前、note でこんな記事を書いた。

この記事の中で、写真が、何かを伝える手段だとして、小説や書道と比較するとこんな表で表せるとしてみました。

この比較をさらに進めていくと、ちょっと面白いことがわかってきたのです。

小説は、「文字」を使っての表現ですね。文字を使って表現するものって、他に以下の形態などがあります。

俳句
短歌
エッセイ(散文・随筆)
新聞記事
広告記事
レポート
論文
そして、小説を書く人を小説家といい、
詩を書く人を詩人、
俳句を詠む人を俳人、
短歌を読む人を歌人、
エッセイ(散文・随筆)を書く人をエッセイスト、随筆家、
新聞記事を書く人を記者、
広告記事を書く人をコピーライターといいますね。
レポートや論文を書く人は、学生、院生、研究者、学者となります。
これに対し、Adobeなどでは、写真の種類として以下のように分類して説明しています。https://www.adobe.com/jp/creativecloud/photography/discover/types-of-photography.html

自然写真、風景写真、天体写真、嵐の写真、花の写真、ペット写真、建築写真、不動産写真、航空写真
鉄道写真、スポーツ写真、ポートレート写真、顔写真、ファッション写真、ドキュメンタリー写真、ライフスタイル写真(ストリートフォト、ウエディングフォト)、食べ物写真、製品写真。
以上は、被写体の種類に応じた写真の分類ですね。
これらの写真を撮る人を、その被写体を冠して、例えば、鉄道写真家と言いますね。何を専門に撮っているかで、言われ方が変わるようです。
他にも、異なる切り口での分類もあります。
ドローン撮影写真、マクロ写真
など撮影手法による分類。
また、次のような分類もあります。
アート・フォト
フォト・ポエム(フォト俳句を含む)
・・これに関連してこんな研究が・・ここをクリック
報道写真・・これは新聞記事に相当し、撮る人を報道写真家と言います。その中で、戦場で写真を撮る人を戦場カメラマンと言いますね。
広告写真・・これは広告記事に相当し、撮る人を広告写真家と言います。
そして、以上の写真を撮る人を日本では、フォトグラファー、カメラマン、写真家と言います。外国ではフォトグラファーと言うだけですよね。時に専門性を表示して、⚪︎⚪︎フォトグラファー、⚪︎⚪︎カメラマン、⚪︎⚪︎写真家。ということもあります。
これを文字を使っての表現者と比較すると、あることがわかってきました。
文字を使った表現者は、小説家、詩人、俳人、歌人、エッセイスト、随筆家、新聞記者、ライターといったようにその属性が明確に分かれます。
一方、写真を使った表現者は、いずれも、⚪︎⚪︎フォトグラファー、⚪︎⚪︎カメラマン、⚪︎⚪︎写真家というように、フォトグラファー、カメラマン、写真家という末尾の言葉で共通化されています。

写真で何かを表現しようとするとき、真っ先に試みるのは、「綺麗な写真」「うまい写真」を撮ろうとすることではないでしょうか。文字での表現で例えてみると、習字・・書道に通じ、綺麗な文字、うまい文字を書くことに似ています。
そういう段階は、写真家=書道家ということになります。

私も最初は、撮影技術を磨き、綺麗な写真、すごい写真を撮ることばかり考えていたのですが、それって、習字できれいな文字書こうとし、ひいては書道家になろうとしているのと同じですね。

それはそれで必要ですが、いくら綺麗な文字を書いてもそれは詩にも、俳句にも、短歌、ましてや小説にはなりません。
詩や小説、エッセイでもいい。それを写真でやるには、撮影技術とは違う能力を磨く必要がありますね。

目の前で起きたことを写真に収めて、報道すること、それは、新聞記者として記事を書くのと同じで、これまた小説等にはなり得ないですね。芸術的なことは考えなくていいし、むしろ不要ですね。
ルポタージュとしていろいろなところに行って、取材して報道する。その分野は、エッセイや随筆に似ているかもしれない。
しかし、どのような写真を撮っても、フォトグラファー、カメラマン、写真家という末尾の言葉で同じ属性に括られてしまっているのが、写真の世界の実情ですね。
そして、小説など文学の分野に相当するフォトアートの分野で写真を撮る人を写真作家といわれる人もいますが、その人等も通常は写真家と言われます。

で、おかしな現象が起きる。

それは、どの分野の写真も、同じ写真ということで、同じ土俵で語られてしまいがちであるということです。

例えば、広告写真家がフォトアートの作家の作品を広告写真の視点で語ってしまうということ。

これに対して文学の世界で、同じ文字を使っているからと言って、詩人が小説家の作品をうんぬん語る例はあまり聞いたことがないですね。

そんなことが起きるのは、写真を撮る人すべてをフォトグラファー、カメラマン、写真家と言ってしまったが故で、そのため、「写真」が文字のような手段としてではなく、撮影行為の成果物として単なる写真として、その属性を意識せずに語られてしまうから、ではないかと思うのです。

写真を語るには、その写真の属性を意識し、その分野での表現のあり方をよくよく研究した上で語りたいなと思う次第です。


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