はじめに
写真についていろいろ語っている記事など見ると、気がついたことがある。それは、写真とな何かという定義なしに議論されていること。とりわけ生成AIの登場に伴う写真についての議論に違和感があるのです。
カメラで撮影した写真も、生成AIで作成した画像も、「写真」として語られ、写真があぶないとか言われてもいます。
カメラがデジタル化したおかげで、撮像イメージが、情報処理可能な画像データとなり、よって、生成AIで作成した画像データとそのレベルで同じ土俵に乗ってしまうからなのか、両者が同列に語られる場面も少なくないですね。
果たして、同列に語れるものなのでしょうか?
そんな疑問がよぎったので、この記事を書くことにしました。
私なりの写真の定義
私が思う「写真」の定義は、以下のようなものです。
写真とは、実在する被写体から反射する光を、レンズを通して受けた感光体(フィルムや撮像素子)によって、被写体の(ありのままの)姿として固定した画像。
そして、写真もまた創作物と言われるが、写真の創作という視点からみると、
★どんな被写体を撮影するか(被写体の選択の問題)、
★それをどのように撮影するか(露出:明るさ、構図等の問題)、
★撮影した画像を、どのように固定するか(データ処理、プリントの問題)、
の点で創作的関与の余地があるように思える。
ここで、意見の分かれるところであろうが、私は、被写体を演出してしまうのは好まない。なぜなら、それは写真の創作ではなく、被写体の創作となってしまうからである。商品など物獲りや、ポートレート撮影などで、物の配置や人間の仕草を色々と変えてもらうのはここでは許容されるが、森村泰昌氏のように、さまざまな有名人に「変身」してセルフポートレートとして写真に納めることは、表現媒体として写真を使用しているに過ぎず、創作されたのは「変身」した被写体たる自身の姿であり写真ではない。
また、「被写体の(ありのままの)姿を固定した画像」と、ありのままをカッコ書きにしたのは、レンズを通した画像が、必ずしもありのままとは言えない場合があるからである。Photographが「写真」と言われる所以は、被写体のありのままの姿を写すと信じられていたからであろうが。
ChatGPTによる写真の定義
写真とは何か? とChatGPTに聞いてみると以下のような答えが返ってきた。
次に、「生成AIで作った写真は、本来の写真といえるのですか?」とChatGPTに聞いてみた
生成AIで作られた画像は、伝統的な意味での「写真」を駆逐するか?
生成AIで作られた画像は、「写真風の画像」で、伝統的な意味での「写真」とは異なることは確かだが、結果物としての画像はデジタルデータとして同列になる。
そこで、これまで伝統的な手法によって得ていた写真が、生成AIで作られた画像に置き換わるという現象が生じる。
商品撮影の場面である。広告などの場面では、その商品等を効果的に売り込むための画像が必要なわけで、それは誰が撮っても良いし。生成AIに作ってもらってもよいわけだから、結果的にニーズに合えば経済合理性の高い、すなわちコストの安い手段に流れ、生成AIに代替されてしまう場面であろう。
しかし、写真を使って、自分なりの表現をしたい、というシーンで生成AIに頼ることはどうなのでしょう。頼ってはいけないというものではなさそうであるが、全てを頼ってしまったら、それは自分の表現ではなくAIの表現であり、それを自分の表現として発表することは、後ろめたさが伴うことになろう。
そこで、「写真表現とは?」とChatGPTに聞いてみた
こんな答えが返ってきた。
結論を導く問い・・生成AIは写真表現に必要か?
そこで、「商品写真の分野では生成AIが作る画像で代替されるが、写真作家が自己の表現をする場合生成AIは必ずしも必要ではないと思うが、どうか?」とChatGPTに聞いてみた。
写真の表現とAIを用いた画像の加工
撮影した写真をフォトショップなどで編集・加工することがあるが、加工により写真が元の姿をとどめなくなっていくこともある。画像に手を加えていくことが、表現の上で必要だというのであれば、許容されるべきであるが、それは、もはや写真という枠を越えてCGの世界や、絵筆で絵を描く世界に近くなってしまう。この分野の成果物は創作物として尊重はされようが、私が定義する「写真」からは大きく外れることとなる。
終わりに
ChatGPT・・賢いなあ。写真が生成AIに代替されるか否かより、人間がChatGPTに代替されてしまわないか、心配した方が良いかも(笑)
追記
なお、生成AIが作り出すフェイク画像については、これは表現の問題ではなく、世の中を混乱させる悪として排除されなければならない。この場面では伝統的な写真との見極めが必要となるが、現実に可能なのだろうか。そこが問題。