「写真の創作」って何?(12)・・・写真の悲劇とphotographの希望・・・「写真」は「copy」で「photograph」は「build」・「compose」?
写真の創作物としての価値
素朴な疑問・・写真は創作物として著作権法で保護されるものの、我が国においてその価値は、他の創作物より低くみられているのではないか? そうだとすると、それはなぜか?
写真が創作されるものであることは確かであるが、その創造性や価値につき、やや疑念が生じてくるのは、「写真」という言葉に起因するように思えてならない。「写真」はその名の通り、写すであるから=「copy」ということになる。一方、写真家サム・エイベル氏は、「photograph」は「build」するのだという。この差はとても大きい。
photograph=写真?
「photograph」が「写真」と言われるようになった理由を調べてみると、先人がこんな情報を公開している。
写真の語源については、下記のようなものも 笠井 享氏により紹介されている。
日本にphotographが輸入されたとき、それを写真と訳したのは、上記のように肖像を写すのに専ら使用されたからかもしれませんね。
ともかく、photograph=写真と訳してしまったがゆえに、
日本におけるphotographの意味が本来のものからずれてしまい、その社会的評価も変わってしまったのではないかと思うのは私だけではありません。
上記の笠井氏もこの点、以下のように指摘しています。
「写真」は「copy」・・・写真の創作性を疑念させる要因
「photograph」がなぜ「写真」となったのかはともかく、「写真」と称されるがゆえの弊害はぬぐいきれないように思う。なお、ここで問題としたいのは、写真が「真実」を写すのかということではなく、「写す」という概念自体の問題である。写真機で対象の映像を撮ると、その映像がそっくりそのままフィルムに転写されるので、訳として「写す」という言葉を「photograph」に当てたことに当時は違和感はなかったのかもしれません。しかし、「写す」は、辞書によると以下のような意味である。
そして、英語では「Copy」であり、そこには何らの「創作的活動」のイメージを見出せない。
皆さんどうでしょうか。Copyしたものに対し、あなたはどの程度の価値を見出しますか? この点が「写真」の創作性を問題とする原点なのです。この「写真」=写すという行為を意味する言葉が、写真の価値を低くさせてしまっている原因ではないか。
しかも、カメラのシャッターを押すだけで「簡単」に撮れてしまうことがそれに拍車をかけてしまっている。
「写真」という言葉が、日本人の潜在意識下に、簡単にコピーした価値の低いものという意識を植え付けてしまっているのではなかろうか。写真撮影という行為は、フィルム時代は幾分かは敷居の高いものであり、それなりの経験を要したが、デジタル時代の今、それこそ誰でもシャッターを押すだけで、良質な写真を撮れるようになったので、上記のことはなおさらである。
しかし、写真につき、創作する余地があるのは確かであり、その創作性につき、判例も認めていることはすでに紹介した通りである。写真の価値を高めるためには、その創作の程度を高め、その人でなければ撮れない、自分ではそのような写真は撮れないと思わせるような創作性、感動を与える必要があろう。それを表すのが「photograph」=「build」・「compose」ということである。
「photograph」=「build」・「compose」
写真というものを、「写す」ということではなく、「構築する」という概念で対応するなら、どんなことをすることになるのだろうか。
目の前の景色を単に写し撮るという作業ではなく、得るべき画像をどのように構築するか、画像の中に何を入れ何を入れないか、入れるとするなら、どの位置に入れるか。
そもそも何を撮影すべきか。それを白黒で撮影するとか、カラーで撮影するか。その他、画像の構築のためのさまざまな要素の取捨選択。それらによって、写真を「構築」=「build」・「compose」していく。
そいった概念が前面に打ち出されのであれば、写真というものの価値はもっと上がるのではないだろうか。
日本の写真撮影のテキストを見ると、確かに、構図のあり方、露出の決め方、フィルターの使い方などの説明は多々あるが、それらは、写真を創作するという観点というよりは、撮影技術という観点での説明で止まっているように思える。どの世界でもどうやら日本人はスキルを磨くことが好きなようである。
問題は、それら撮影技術をどのように使って、どのような表現をするのが良いのかであり、そういうことが重要なのではないだろうか。写真はcopyではなく「build」・「compose」ということで、写真の将来に希望が見えてくる。