殺人罪――生後7ヶ月の我が子をマンションから2回投げ落として死なせた母親
被告は犯行当時36歳の女性。少しふくよかで、髪は鎖骨につく程度の長さ。被告が問われている罪は、殺人罪である。
生後7ヶ月の娘を集合住宅の5階から投げ落とした後で、負傷した娘を抱き上げ、再度9階から投げ落とし殺害したという。
被告は逮捕当時は事故であると主張したが、法廷では容疑を全面的に認めた。
被告の生い立ち
被告は大阪府岸和田市で、6人姉妹の4女として生まれた。5女と被告の父親は同じだが、他の姉妹は違う。
2歳の時に被告は養護施設に預けられ、18歳になるまでそこで暮らし、両親の記憶はなかった。長じてから母と電話で連絡を取るようにはなった。
被告には中程度の知的障害とパニック障害があり、障害者手帳を持っている。性格は明るく、会話にも問題はないが、数字に弱く簡単な足し算ができない。大きな声を発されるとパニックになり、凍りついたり、泣いたりしてしまう。
他者に危害を加えるようなことはなかったが、自罰的で、自らの体を強く叩くことがあった。
思春期を迎えてから、被告の性生活は乱れた。男性から求められたら安易に受け入れてしまう上に、本人の性的欲求も強かった。
特別支援学校を卒業後、施設を出た被告は一人暮らしを始めた。
支援機関に生活を支えられながら、障害者雇用で働いた。勤務態度は真面目なものだった。
19歳の時、被告は10歳年上の男性と恋人同士になった。恋人は支援学校の同級生の兄で、17歳前後の時に紹介され親しくなっていた。
やがて、被告は妊娠した。
恋人はプロポーズしてきたが、支援機関は結婚と出産に反対した。恋人以外とも性関係を持っていることが理由だった。
支援機関に病院へ連れて行かれ、否応なく中絶手術を受けさせられた。
それでも恋人は結婚を望み、支援機関も認めるようになり、2007年に被告は23歳前後で結婚した。
被告は夫と義母と三人で暮らすようになった。
結婚後も被告は夫以外との性関係を絶てなかった。被告には性の乱れを隠すべきだという考えがなく、不倫相手のことを夫に対しても明け透けだった。
後に生まれる子供たちについても、本当に夫の子なのか、不倫相手の子ではないかと夫妻はしばしば喧嘩した。
被告と4人の子供たち
2009年、被告は長男のAを出産した。Aは事件当時は11歳前後。
Aには軽度の知的障害、パニック障害、自閉症がある。
乳児の時にはあまり泣かず、長じてからは身支度など進んで一人で行えるようになり、大人しく育てやすい子。
Aの通う支援学校は近所までバスで迎えに来てくれるため、送迎にも負担がなかった。
区役所に行った際に、Aについて「なんでこんな子産んだんや」「お前に障害があるから子供も障害を持つ」と職員に言われ、被告はショックを受けたという。
2012年、被告は長女のBを出産した。Bは事件当時は7歳前後。
Bは健常者である。大きな声でよく泣く赤ん坊で、被告は子育てに苦労した。
一度、被告はBを殺そうとした。首を締めようとしたのか口を塞ごうとしたのかは曖昧だが、義母に止められて未遂に終わった。
小学生になるとBは深夜まで被告のスマホで遊ぶようになり、よく寝坊した。
集団登校の待ち合わせに間に合わないが単独で登校させるのも心許なく、被告はほぼ毎日学校前まで送って行った。
登校付き添いは被告にとって負担が大きかった。
2014年、被告は次女のCを出産した。Cは事件当時は6歳前後。
Cは中度の知的障害と、重い難病を抱えて生まれた。
生命に関わる病状で、2歳になるまで医療施設で育った。
頭蓋骨が小さいため拡張する手術をして、手の指が結合しているため分離する手術もした。
様々な肉体的問題を抱え、これからも手術を重ねていく必要があった。
一家の大黒柱である夫の年収は300万円ほどで、被告の障害者手当や育児手当を合わせても家計は厳しかった。
だが夫は、男児が長男しかいないため、男の子がもう一人ほしいと望んでいた。
2018年に被告は三女Dを妊娠した。Dは事件当時は生後7ヶ月の、事件被害者となる子供である。
Dを妊娠中、身重で幼児の相手は大変だからと、一時的にCを施設に預けた。
子供が4人になれば家が手狭になるからと一家は新居に引っ越した。
大阪市平野区にある新しい借家は3階建てで、老いた義母は階段の上り下りに苦労し、家事を被告に任せる割合が増えた。
2019年6月、被告は令和ベビーとなる三女Dを出産した。
Dは健常児で、ごく一般的な推移で成長していった。
被告が三女を産んでから
三女Dはよく泣く子で苦労はしたが、被告は子供好きであり、当初は育児を楽しむ様子だったという。
しばらくして、預けていたCが家に戻ってきた。
Cは物をひっくり返したり泣き叫んだりと活発で、Cが泣くとつられてDも泣いた。
Dは寝たかと思って横たえると泣き出し、被告は長時間Dを抱きかかえ、横になって寝ることがほとんどできなかった。
CとDの泣き声を聞き続けていると頭痛が起こり、目眩と吐き気もして被告はやつれていった。
起きているか寝ているか本人でもわからない夜をすごし、朝になればAを支援学校のバスに送り、Bを小学校まで連れ出し、Cをデイサービスに送り、そして一日中Dの世話をした。
夫は多忙で、平日は朝7時に家を出て夜9時に帰り休日もあまりなく、育児についてはあまり頼れなかった。
また夫には皮膚疾患があるため、子供を風呂に入れるといったことも出来なかった。
義母はAとBが赤ん坊の頃は積極的に育児をしていたが、70歳を過ぎ、加齢で体の自由が利かなくなってきていた。
義母はDの世話を代わろうとしてくれていたが、オムツを変えるタイミングなど、やり方の違いを被告が強く否定したため、Dについて避けるようになったという。
被告の一家は「要保護児童家庭」と認定されており、役所の保健師はよく被告と連絡をとっていた。
サポーターを家に招いて家事育児の手伝いをしてもらったらどうか、と保健師は提案したが、被告は拒んだ。
一家には掃除が得意な者がおらず室内はきれいな状態でなく、他人を家の中に入れたくなかった。
「頼れば良かったが、自分を追い詰めていた」と被告は供述した。
2019年8月22日、被告は保健師を訪ねた。
その日、被告はCの世話に手を焼いており、施設に預けたいと話した。
10月7日、被告は保健師に電話をかけた。
開口一番「もう、しんどい」と言って泣き出した。
「ゆっくり眠れる時間がほしい」
Dを抱きかかえながら睡魔に襲われ、うっかりDを落としてしまい、不安を覚えたという。
保健師は被告の家を訪問し、乳児を預けられる施設を教えたが「家族に反対される」と被告は言った。
10月15日、被告は保健師に電話をかけた。
Dを預けたいと家族に相談したが「何がしんどいん」「甘えてる」と言われ、反対されたという。
それでも預けたい、明日預けに行く、そう被告は話したが、結局そうはしなかった。
12月17日、被告は保健師を訪ねた。
Cの世話が大変なこと、Dの離乳食がはじまったことを報告した。
被告はDを産んだ時には太り気味だったが、それから半年ほどの12月頃には、10キロ以上体重が落ちたという。
2020年1月9日、Dがインフルエンザにかかって高熱を出した。
2日間の入院を経て回復したが、夫と義母も感染し、被告は看護に追われた。
「眠たいねん、しんどいねん」と義母に話したという。
1月16日、被告と夫が保健師を訪ねた。
いつも被告だけが来ており、夫が同行したのははじめてだったという。
夫はDを預けることに初めは反対していたが、近頃の被告のふさぎ込んだ様子を心配し、預けたいと相談してきた。
その日は被告は黙り込んでおり、夫ばかりが保健師と話した。
保健師が紹介できる近隣の施設は満員で、空きが出るのを待つしかなかった。
1月18日、夫は別の施設を見つけて連絡したが、そこも満員だった。
1週間後に空きが出る予定なのでそれまで待つように言われた。
義母は、「他にも大変な家庭はあるのに」と預けることに反対して夫と口論になった。
夫の妹にも子供がいるのだが、わけあって施設に預けたところ、行政判断でそのまま子供を返してもらえなくなっている。
義母は、Dも返してもらえなくなるかもしれないと心配していた。
被告は「Dがおらんかったらしんどくないのに」と言い、「なら産まなかったら良かったんや」と義母は返した。
事件当日
2020年1月19日(日曜日)。
前日の口論の後、被告はいつものようにDを座ったまま抱き続け、一睡もせずに気づけば朝の8時になっていた。腕がとてもしびれていたという。
少しだけ眠った後、9時半に長男のデイサービスの迎えが来るので、被告はDを抱きかかえながら長男を送りに行った。
見送ったあと、上着も靴下も身に着けない薄着のまま、被告はDを抱いて無為に外を歩いた。
家の鍵もスマホも財布も持っていなかった。
口論の際に発した「Dがおらんかったらしんどくないのに」という言葉は、口をついて出るまで意識したことのない考えだった。
言った後から、その言葉がずっと被告の頭の中をグルグル回っていた。
9時43分、被告は、近所にある集合住宅に着いた(冒頭画像)。
その住宅は長女Bの友人一家が住んでいるところで、遊びに行く時の送迎で何度か訪れた。
被告は、外階段の4階と5階の間の踊り場へ行った。踊り場に行くのは初めてだったという。
被告はDの体を踊り場の手すりの外に突き出した。体を掴む手を緩めれば、Dは落下する状態だった。
「自分のしてることが怖くなって、誰か止めてくれへんかなと思った」
被告はそのままDの体を踊り場から落とした。
下からDの泣き声がして、「生きてた、良かった」と被告は思った。
見に行くと、Dはかすり傷を負った程度の状態だった。
後に警察が調べたところ、そばにあった椿の木が折れていた。落下したDのクッションになったのだ。
泣きじゃくるDを抱きかかえ、被告は次に8階と9階の間の踊り場に行った。
同じように、手すりの外に向かってDの体を突き出した。
「誰かに止めてほしいと思った。震えるほど怖かった。自分では止められなかった」
10時5分、Dを落とすと、泣き声が下方に向かって遠ざかっていき、ドンッと音がした。
その音を聞いた時に、Dは死んでしまったのだと被告は思った。泣き声はもうしなかった。
見に行くと、Dは後頭部から大量の血を流し、ひたいにも切れ目が入って出血していた。
Dの落下地点は固い地面の上だったが、被告はDの遺体を隠そうと花壇の方へ移動させた。
だが考えを改め、Dはもう助からないとわかっていたが、救急車を呼ぶことにした。
警察を呼ぼうかとも思ったが、「警察は怖い」と思った。
電話しようとして被告はスマホを持っていないことに気づき、家にスマホを取りに行き、電話しながらDのもとへ戻った。
10時22分、被告の通報を受けて救急隊の消防士が着いた。
消防士は冬に薄着姿の被告を不審に思った。
被告の声は弱々しいが落ち着いた様子で、Dについて「ベランダから落ちた」と説明した。
Dを運びながら「乳児が花壇に転落した」と消防士が他の人員に連絡していたら、被告は「落ちたのは別のところで、移動させた」と訂正した。
「なぜ移動させたのか」と聞くと、「移動させてはいけないのか」と被告は感情的になった。
「言動がおかしく、信用できない」と消防士は感じたという。
被告は夫にも電話し、「Dがベビーカーから落ちた」と話した。
だが、ベビーカーは自宅に置かれたままだった。
追求され、「ベンチから落ちた」「手すりから落ちた」と被告の説明は二転三転した。
Dはすぐに死亡確認された。葬式のないまま火葬された。
逮捕後
当初、被告は犯行を否定し事故であると主張したが、やがて容疑を認めた。
「最低最悪のことをしてしまった」と犯行を悔いていた。
抱えている障害から責任能力の有無が問われたが、「有る」と精神科医は判断した。
被告は生来の知的障害の他に、育児ストレスによる適応障害が起こっていると診断された。
遺体を隠そうとしたり電話をかけられたりという行動から、鬱病ではないという。
精神科医は「交渉が弱い」と被告を評した。頼み事を断れなかったり、主張の強い人に従う傾向がある。
「未来予測が甘い」とも評した。目の前のことしか見えず、行動の結果をあまり考えられない。
拘留された被告は、接見した弁護士に子供の写真が欲しいと求め、拘置所に飾った。
子供の様子をよく聞き、心配していた。
被告は子供へ手紙を書き、子供が喜ぶからとディズニーの凝ったイラストを描いた。
弁護士への手紙にも、やはり凝ったイラストを描いていた。
また、紅白に出場する歌手の歌詞を送ってほしいとも頼んだ。
被告も子供たちも歌が好きだから、歌詞を覚えておきたいのだという。
裁判
犯行からおよそ1年後の2021年1月18日から裁判が始まった。裁判員裁判となった。
被告は会話には問題がないとのことだったが、特殊な状況もあってか、裁判員の質問には「わかりません」ばかりであまり答えられていなかった。
Dが一度目に投げ落とされた際にはまだ生きていた証拠として、集合住宅の監視カメラ画像が法廷のスクリーンに映された。
映像から切り抜かれた数枚の静止画だが、Dの手足が動いている様子がわかった。
被告はスクリーンを見て、声を上げて泣いた。
被告の夫の供述調書が朗読され、また情状証人として出廷もした。
夫はDの死を嘆く一方、被告に対しての処罰感情はなかった。
「今回の件は、私と私の母のせいもあり、行政サポートも足りなかった。子供に被告は必要、寛大な処罰を」
「家で待っている子供たちがいる。家に帰って一からがんばってほしい」
夫は事件後に退職し、今では家事育児に専念している。
家にサポーターを呼ぶことも検討し、被告が釈放されたらできるだけ支えていきたいという。
義母は出廷しなかった。取り調べの際に、「今回の件は事故だと信じたい」と語った。
検察官は、事件についてまとめ、着目すべき点を3つ挙げた。
1.被害結果が重大
2.強い殺意に基づく
3.乳児院に空きが出ると知っていたのに犯行に及んだ
また、被告に有利な点も3つ挙げた。
1.家事育児に多大な負担
2.行政に相談するなど相応の努力
3.抱える知的障害・適応障害
以上の点から、検察官は懲役5年を求めた。
弁護士は、検察官の述べた「強い殺意」を否定し、衝動的なものであると述べた。
犯行時、比較は1月の寒い中を、長男Aを送り出すための薄着のままで犯行現場まで出ていった。
事件当日のカメラ映像を見ると、被告は真っ直ぐに高所へ行ってDを投げ落としたのではなく、2階まで階段で上り、2階から5階へエレベーターで上り、更に5階から4~5階の踊り場まで下りて犯行に及んでいた。そしてまだ生きていたDの様子を見るためにその場から階段で駆け下りていた。
その行動に、弁護士は「強い殺意」ではなく「逡巡」が読み取れたという。
また被告には前科がなく、現在では家族や行政も協力的であり再犯の恐れがないとして、寛大な処置を求めた。
被告は「Dちゃんにはほんま申し訳ないことをした。(夫)さんや(義母)さんと一緒に家のこと頑張りたいです」と述べた。
判決
懲役3年 執行猶予5年 保護観察処分
つまりは、今後5年間なんの罪も犯さなければ服役をしなくてもよい、ということ。
障害を抱えながらの障害児を含む子供たちの養育にはまだ不安な面があり、不定期に保護観察官との面会が必要となる。
犯行当時、被告は心神耗弱であったと認定された。裁判官は「経緯には、気の毒な面も多くあり強く非難することはできない」と述べた。
感想
報道されていた事件。そのためか傍聴人が多く、初回は満員になっていた。普段の傍聴人は中年や高齢の男性が多いが、比較的若い女性が多いように思った。特に目当てにして傍聴に行ったわけではなく、ふと行った日にやっていた。
被告の子供には健常児と障害児がおり、障害児同士でも障害の重さが異なり、それぞれに違う場所へ送り出さないといけないのは乳児を抱えた状態では負担が大きかっただろう。
保育園の空きの問題で、健常児同士であってもそれぞれ違う保育園に毎朝送らないといけない家庭はあったりするそうだが。
被告は頑張りすぎて犯行に及んでしまったのに、夫が「一から頑張ってほしい」と述べたのは酷じゃないかなーと聞いていて思ったが、被告の原動力がそこにあるのなら適切なのかも。
弁護士も裁判員の情に訴えるような語り口の中で被告を「子供が好きながんばり屋さん」と語っていた。
被告と夫を引き合わせた「夫の弟妹」と、行政に子供を取り上げられて返してもらえなくなった「夫の妹」は同じ人物なんだろうか。
妹の件があったがための「一時的に預けることさえも忌避する」という家族の思考、高齢の義母には負担のある3階建て住宅への引っ越し、事件の土壌が次第に固まっていくのが時系列順に見ていくとよくわかった。もう取り返しのつかない過去の出来事とはわかっているが、ここでどうにかしていたら、と思える箇所が幾つもあった。