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「僕は物質主義をやめてみた」ミニマリズムの本当の自由を求めて

僕は物質主義をやめてみた。
 

物質主義を手放し、見えてきた「本当の幸せ」
 


気づけば、僕は消費することに追われるように生きていた。都会に出かけ、新しい服を買い、カフェで話題のデザートを楽しみ、友人と次々と新しい体験を追いかける――一見すると充実しているように見える日々だった。しかし、その生活の中で、何かがずっと引っかかっていた。
 
「これが本当に自分の望むものなのか?」と心の奥底で問いかける声が聞こえるようになったのだ。高校2年の時、ミニマリズムに興味を持ち、少ない持ち物でシンプルに暮らすことを始めたのも、実はそんな疑問がきっかけだった。物を減らし、必要なものだけに囲まれて身軽に生きることは、自分を自由にしてくれるはずだった。
 
しかし、持ち物が少なくなるにつれて、逆に一つひとつの物に対する執着が強くなっていった。持つ物が少ない分、「これじゃ物足りない」「もっと自分らしくありたい」と細かな違和感まで気になる。さらに思春期の影響もあって、家族との時間は減り、友人たちとの消費活動が遊びの中心になっていった。最新の服や話題のスポットに行くことが「楽しむこと」だと信じ込んでいたのだ。
 
けれども、消費を重ねても心が埋まらない感覚が残り続け、「物を持つだけでは満たされない本当の豊かさとは何だろう?」という問いが心の奥底で大きくなっていった。
 

ミニマリズムを通じた気づき:こだわりが増す矛盾


 
高校2年の頃、僕の部屋は先輩から譲られた大量の服で埋まっていた。ファッションが好きだったし、ひとつひとつのアイテムをじっくり選んで身につけることにこだわりを感じていた。でも、その大量の服の中には実際には着ないものも多く、ただ「持っているだけ」で満足していた物も少なくなかった。そこに兄が教えてくれた「ミニマリズム」という考え方が、僕の心に新たな衝撃を与えた。
 
兄が教えてくれたミニマリストしぶさんのブログを読み進めると、「本当に必要なものだけで暮らす」「物の数を減らし、自分にとって大事なものだけを選び取る」といった考え方に引き込まれていった。持つ物を厳選し、物に縛られない生き方を手に入れる。僕にとってそれは理想的な自由の形に思えた。
 
こうして、少しずつ部屋を整理し、身の回りの物を減らし始めた。しかし、持ち物が少なくなるにつれ、今度はその一つひとつに対する「こだわり」が以前よりも強くなっていったのだ。もともと選ぶ物に対してのこだわりが強い方だったが、ミニマリズムを意識するようになってからは、物の「完璧さ」をどこかで求めるようになってしまった。
 
たとえば、「この色合いは他の持ち物と調和しない」「このデザインでは自分のスタイルにぴったりとは言えない」など、少しの違和感が気になってしまうようになった。そして、物の数が少ないからこそ、一つでも納得がいかないと「これでは本当に満たされることがないのでは?」という不安すら感じるようになってしまったのだ。
 
物を持たないことで自由になれるはずだったが、その少ない物に対する完璧なイメージや理想に縛られてしまい、どこか身動きがとれなくなっていた。物質主義から離れようとして選んだ道が、逆に物への執着を増幅させている。この矛盾に気づいた時、「物にこだわり続けることが本当に自分の自由につながるのか?」と、心の奥底で自問するようになった。
 
自然と仲間との時間から得た気づき:物質主義からの脱却
 
物へのこだわりが強くなる一方で、僕が一番自由を感じられるのは、「物を忘れて過ごす時間」だった。それは、友人と一緒に自然の中で、何も気にせず楽しむような、飾り気のない時間だ。
 
ある日、最高の親友と二人で東京の下町をサイクリングしていた時、その感覚がふっと蘇ってきた。華やかな都会のスポットではなく、昔ながらの町並みが広がる場所。目的地は有名な観光スポットではなく、地元の人たちが通う銭湯だった。サイクリングをしながら、デジカメで気に入った景色を撮影し、疲れたら公園で休憩して、缶のコーラを飲む。SNSに映えるわけでもなく、ただその場に身を置いていることが心地よく、僕にとってこれ以上の「豊かさ」はないと思えた。
 
銭湯に着き、湯船に浸かりながらただのんびりと過ごす時間も最高だった。友人が「うまそうに飯を食ってる顔」や、気持ちよさそうに銭湯に浸かっている表情。インスタには映らない、誰かに見せるためでもないその瞬間の空気感が、この時間の価値をさらに高めている。
 
こうした何気ない瞬間の積み重ねが、本当の「豊かさ」を教えてくれるのだと、僕は強く感じるようになった。そして、ふと「こういうことは、父親はずっとわかっていたんだろうな」と思った。派手な場所や物にこだわるのではなく、日常の中で、さりげなく本当の幸せを感じているような父の姿が思い浮かぶ。
 
おそらく、物や見栄にこだわらず、自然の中で楽しむ遊びや、仲間と過ごす何気ない時間が一番の宝物だと父親は知っていたのだろう。今では、それが本当の「豊かさ」だと僕も感じている。
 

一人で過ごす時間と心の豊かさの発見


 
友人や父親と過ごす時間の中で、「物にとらわれない豊かさ」を感じるようになった僕にとって、一人で過ごす時間もまた、かけがえのない大切なものだと気づき始めた。仲間と共有する楽しさや笑い合う時間が心を満たしてくれるのはもちろんだが、一人でいる時間にはまた別の「深い豊かさ」があった。
 
美術館で絵を眺める時、広がる自然の中に身を置いて静かに流れる時間を感じる時、誰もいない空間の中で何も気にせず、ただ「自分」と向き合うことができる。何かを所有することで得られる満足感とは違い、目の前の景色や瞬間そのものに集中し、そこから湧き上がる静かな心の満足感。まるで心の中に、ゆったりとした「余白」が生まれていく感覚だ。
 
そして、そうした一人の時間が増えるほど、自分の内面と対話する機会が増え、少しずつ「本当に大切にしたいこと」が明確になっていくのを感じた。誰にも見せる必要のない「自分らしさ」をただ静かに受け入れ、何も持たないことがむしろ豊かさに思えてくる。一人で過ごす時間が、物では埋められない心の自由を与えてくれているのだと気づいた。
 

物に縛られない生き方が、物質主義への最大のアンチテーゼ


 
一人で過ごす時間や、友人・家族と過ごす何気ないひととき。それらの積み重ねを通して、僕は「何を持っているか」ではなく「どう生きているか」が本当に大切なんだと感じるようになった。物や見栄に縛られずに自分の気持ちのままに過ごせること、これこそが本当の豊かさなんじゃないかって。
 
今思うと、物を持つことで「何かが手に入る」と信じていた頃の自分は、どこかでその物が自分を形づくってくれると思い込んでいたのかもしれない。でも、実際にはそうじゃなかった。物を手に入れても、結局はそれに気を取られて、本当に楽しむべき時間や、心から大事にしたいものを見失っていた気がする。
 
物に縛られず、身軽でいることで「自分」をもっとストレートに感じられるようになったし、それが心地いい。物を増やすことで得られる満足感とは違う、ただシンプルに生きていくことで得られる、実感としての「豊かさ」がある。誰に見せるわけでもない、自分が本当に楽しめる時間を大事にする。それが僕にとっての「豊かさ」だと思う。
 
これからも、消費や物に縛られることなく、自分が本当に楽しいと思える瞬間を選び続けていきたい。物を持たないことで見えてくる価値や、そこにある自由――それが、僕の物質主義に対する最大限のアンチテーゼであり、自分らしく生きる道なんだと思っている。

物質主義を超えた、自分らしい生き方


 
物に頼らず、物がなくても心から楽しめる生活を送ること。それが僕にとっての豊かさであり、物質主義に対するアンチテーゼだと感じている。こうした生活を通して、本当に価値のあるものが「物そのもの」ではなく、「どう生きるか」「どう楽しむか」にあることを確信するようになった。
 
ただ、僕は物を全く持たないわけではない。必要最低限のものにはしっかり頼るし、むしろ「使い倒す」くらいの気持ちで自分の生活を支えてもらっている。それらは自分の生き方をもっと自由にしてくれるツールであって、それだけに、本当に役立つ物たちには感謝しているくらいだ。
 
これからも、物に執着せず、心がワクワクするような時間や人とのつながりを大切にしていきたい。流行や所有することに囚われることなく、自分が心から楽しいと思える瞬間を積み重ねて生きていく。それが僕の目指す生き方だ。そして、誰に見せるためでもなく、ただ自分のために、豊かな時間を過ごしていきたいと思っている。
 
物に振り回されない自由と、自分が感じる「本当の豊かさ」を信じて、これからも自分らしく、物に頼らない生き方を続けていく。

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