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“1人分の”シャニアニ感想 1st season総括

0.はじめに

 前回、4月半ばに第2話の感想を書いてからおよそ3ヵ月。月日が経つのは早いものですね…。本当は第3話以降もちゃんと書きたかったんですけどね。色々考察したいな&そのためには時間が欲しいな…などと思っているうちに本放送が終了してしまい、書けずじまいでした。

 とは言え、2nd season先行上映を観るに当たってひと区切り付けたいとは思っていましたので、ここに書き記しておこうと思います。

 賛否両論渦巻く今作ではありましたが、やはり自分にとっては観ていて楽しかった、好きな作品です。(おそらく)制作陣が意図しない方向で哲学的思索のきっかけを得るという僥倖もありましたし。そんな自分自身の現在地を確かめておこうという試みでもあります。

 以下、前置きとして「この感想がどのようなものであるか」を記しておきます。こちらを読んで、合わないなと思った方はお戻りになることをお勧め致します。

【前置き~本文へ入る前に】

・現時点において未だににわかシャニPである私が書いた文章であるということ。
→にわかであるからこその先入観のなさゆえに、あらゆる事象を肯定的に捉え、シャニアニを楽しんでいる部分が多々あるということ。

・にわかであるがゆえに、制作陣の意図などお構いなしに(そもそもそのようなものを想定する義務などないので)、その内容の一部を私が連想した形而上学的世界観に引きずり込み、エセ哲学的言葉遊びを楽しんでいる部分が多くあること。

・この文章はあくまで「個人の感想」を述べ、かつ巷に存在する賛否両論(主に否)と突き合わせて比較検討することで「私がどのような視点からシャニアニを好きだと感じているのか」という「立ち位置」を「明確化する」ことが目的であるということ。

・従って、シャニアニを作品として「評価する」内容とはならないこと。私の立ち位置からでは、それは不可能であろうということ。そして、それを目的にした文章ではないということ。あくまで徹頭徹尾「私にとってのシャニアニ」について言及した文章に過ぎないということ。 

1.シャニアニここ好きポイント

 色々と講釈を垂れる前に、私がシャニアニのどの部分を好きであるか、そこをまず概観しておきたいと思います。主なものを書き連ねてはいますが、ここに挙がっていないものは興味がないというわけではありません。シャニアニは全般的に好き、という土台が前提としてあり、その土台の上に以下のここ好きポイントがあるということです。

※1~2話についてはそれぞれの感想を投稿しているため割愛します。

・千雪さんと凛世に囲まれて引っ越し蕎麦を食べられる世界線へ今すぐ行きたい。

・4話全般が狂おしいほど好き。以下特記事項。
→お助け凛世かわよいだいすき。「あーれー」好き。その後舞台袖でPとさりげなく2人きりになるところは計画通りといった感じでこれも好き。
→変身シーンは否応なくテンション上がる。果穂の動きがひときわダイナミックで好き。凛世の控え目ながらも全力感が感じられるちょこちょこした動きももちろん好き。
→ラストシーンで凛世だけPを見つめてたのはさすがというか何というか。やはりPラブ勢筆頭は凛世をおいて他にいない。(異論は認めますw)

・5話、灯織の告白シーン好き。誰が何と言おうとあれは告白シーン。それが証拠にそれ以降イルミネがずっとラブラブではないですか。以下へ続く。

・5話以降ずっとイルミネがラブラブすぎる。狂おしいほど好き。
→なんであんなにかわいいんですかねあいつら。いいぞもっと末永くやれください。

・W.I.N.Gへ向けて練習風景などをスマホで撮影したり、取材を受けるシーン全般が好き。
→恋鐘の顔が良すぎる。美しいなんてもんじゃない。あんなんいくらでもどアップにして欲しい。今すぐ重要無形文化財に指定すべき。
→凛世の「W.I.N.G対策会議と参りましょう」がだいすき。
→放クラを取材するスタッフになりたかった。なんでかほちょこからドリンクとお菓子もらってんですかね。いいからさっさとそこ代わりなさい。

・W.I.N.G敗退後の恋鐘と果穂。普段とのギャップが胸に刺さる。
→誰よりも前向きに優勝を目指していたからこそ、恋鐘は悔しい。
→誰よりも全力で取り組み、仲間との時間を大切に思っていたからこそ、このかけがえのない時間が終わってしまうことに果穂は涙する。
→そこに寄り添う仲間がいてこそ、彼女たちはまた前に進んで行ける。
→このシーンを経て、自分にとっての恋鐘と果穂が凛世に次ぐ存在となった。2人の解像度が上がった瞬間でもあった。まだ担当とまではいかないが大好きな存在となった。

・1stライブ発表シーンの恋鐘と果穂、フンフンと積極的に聞く姿勢が好き。
→もう切り替えているところがホント好き。前向きが服着て歩いているような存在。そしてそれは仲間が寄り添ってくれてこそでもある。

・↑の少し前、甜花ちゃんに挨拶するぺこりんぜすき。かわいい最高たまらぬ。

・放クラとアルストが一緒にレッスンするシーンすき。
→キラキラおめめでアルストを凝視する放クラが狂おしいほど好き。
→凛世の「ばーん」は100万回昇天してしまうほどに好き。今自分が現世にいるのかあの世にいるかわからなくなるくらい好き。

・8話、寮で行われたパーティーの場面
→こういう日常的なわちゃわちゃシーンは基本的ん好き。凛世がお手伝いポジなのも素晴らしい。凛世すき。

・合宿シーン
→炊飯器を覗く凛世、優勝です。世界無形文化遺産に登録すべき。
→真乃に覆い被さるめぐる、あなた反則です。是非私も混ぜてください。あと灯織も混ぜてあげてください。
→花火付けたまま顔より高い位置に持ち上げちゃうイルミネすき。良く火傷しないな!ビジュアルレッスンの賜物かな?強靭な皮膚の持ち主すき。
→花火の後に皆で夜空を見上げて顔がアップになるところすき。こんなんキス待ち顔16連セレクションガシャチケット貰ったようなもんですやん。お得ですやん!

・そしてライブへ…
→各ユニットの舞台袖シーンにそれぞれの歩んできた道、ユニットの色が出ていて…それが余計に涙を誘うのですよね。こういう構成、本当に好き。もちろんライブそのものも好きすぎて、みんな尊すぎて…ずっと泣いていられる。特に太陽キッスは反則ですわ。今すぐ放クラを人間国宝に指定すべき。

 以上です。

 もっと簡潔にまとめられるかな?と思ったんですが、そうもいきませんでしたね。これでも厳選したつもりではありますが。

 お次はいよいよ本題です。
 誰が何と言おうと、個人的にはこちらが本題なのですよね。


2.改めて「1人分の空」から想起されたこと~哲学的(独我論的)視点より

 ここからは哲学的視点からのお話です。と言っても第1話の感想でだいぶ書けているので、ある程度満足してしまっている感があったりするわけですが(笑)、それでは総括にならないので、振り返りつつ色々書いていこうと思います。

第1話感想のリンクを置いておきますので、ご参考までに。

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 初見で「1人分の空」という真乃のモノローグを聞いた時の高揚感をつい昨日の事のように思い出す。二十年以上も前に浸っていた哲学の世界、それが自分の脳内に再び解き放たれるのを確かに感じた。

 その時想起されたのが、独我論的世界観である。
 特に第1話はその要素が顕著に現れている。

 言葉を極力排しているため、説明などほとんどない。しかしながら、それこそが櫻木真乃から見た世界そのものを如実に描き出している。アイドルになるという自覚も実感もまだ育ち切っていない、この時点での櫻木真乃という「主体」によって限界づけられた世界なのである。

 だからこそ、説明などあってはならないのだ。それは櫻木真乃という「主体」によって与えられたものではなくなる。その「主体」によって限界づけられた「世界」は他者の介入を許さない。

 ここで「制作陣の意図」などをあれこれ詮索しても無意味なのは自明の理である。

 あくまで私がそのように捉え解釈したいという欲求が、このような文章を私に書かせているに過ぎないのだから。私は「シャニアニを題材に私自身の哲学的欲求を満たそうとしている」ということなのである。

 さて、「主体」によって限界づけられた「世界」は他者の介入を許さない、と先述した通り、櫻木真乃という「主体」によって限界づけられた「世界」を描き切るには余計な説明があってはならない。それがどんなに拙くても、どんなに受け取る我々が説明不足であると感じても、それで良いのだ。それが「櫻木真乃が見た世界そのまま」なのであれば、一種の成功と言えるだろう。

 何に成功したのか?
 「櫻木真乃的独我論」の世界を描き切ることに、である。

 シャニアニをドキュメンタリーであると評する意見をXのタイムラインで見たことがある。一方、これはドキュメンタリーですらないという意見もまた、タイムラインで見られた。ドキュメンタリーはもっと徹底的であることが求められるからというのがその理由であるらしい。

 ドキュメンタリーでないという意見の方に、私は同意である。なぜなら、特に第1話においては、「櫻木真乃の世界」をそのまま切り取って提示されたに過ぎないものだからである。しかし、それが徹底的でなかったかというと、それには異を唱えたい。

 先程「櫻木真乃という「主体」によって限界づけられた「世界」を描き切るには余計な説明があってはならない。」と書いた。この点において、特に第1話は徹底的であったと言えるだろう。それはドキュメンタリーを作るという意味においての徹底的ではなかったかもしれない。しかしながら、こうした別の意味において徹底的であったと、私は受け止めるのである。

 櫻木真乃を他のアイドルに置き換えて考えることも可能である。

 例えば第3話。この時の「主体」は「大崎甘奈」である。

 フラワーフェスティバルに出演した際の一連の出来事も、説明的な描写は一切ない。大崎甘奈という「主体」によって限界づけられた世界の中で繰り広げられる出来事をそのまま描き出している。突然不機嫌になる少年、甘奈にはその原因も、その後機嫌を持ち直した原因もわからない。何とかしようとあの手この手を尽くした様子だけが描かれる。

 第1話の感想で以下のように書いたことを思い出す。

※下記『』が引用部分

『その様なことは、我々の人生においても往々にしてあるのではないか。理由や根拠をうまく脳内で言語化できないうちに、様々な事が決まっていく。もしくは決めていかねばならない。あるいはいつからか自らの内なる何かが芽生え、そして進んでいく。

そうやって「何となくだけど結果として確かに前へ進んでいる」ことが、少なくとも私には何度かあった。理由を聞かれて答えてみるものの、それは全て後付けである。人生とは案外そんなものかもしれないのだ。』

 第3話でも、そのような「そんなものかもしれない」というふんわりした部分を描き切ったと見ることができる。第1話感想でも述べた通り、このような日常がありのまま切り取られ、何も加工せず原石のまま提供されているかのように思える。

 シャニアニは全編を通してこのような描き方が散見される。それは私のように哲学的題材を欲していた者にとって僥倖とも言うべき出来事であった。ここまで私に哲学的題材を提供してくれるアニメであるとは露ほども思っていなかった。だからこそ僥倖なのである。

 もちろん、このような描き方を良しとしない意見や感想が多いというのも承知している。

 先述した通り、私はシャニアニついて「評価」することはできない。しかしながら、これまで述べたような受け止め方も可能であり、実際私のようにそう受け止めているという側面を提示することはできる。そのような立ち位置に居る者がここに1人、確かに存在することを示すことはできるのだ。

 このような可能性を提示できるというのは実に興味深い。

 制作陣の意図とは関係なしに、ある者は酷評し、ある者(ごく少数ではあるが)はこのように哲学的題材をそこに見出し、自らの心を存分に満たす営みを営む。この興味深い差異をはっきりと認識しておくことで、自らの立ち位置がよりはっきりとする。そしてそこから動くこともできれば、留まることもできる。

 今、私は留まることを選択している。こんな楽しい事を放り出す理由が他にあろうか。哲学的なことを思い浮かべてこんなに楽しい気持ちになるのは大学時代以来、二十数年ぶりである。

 全編を通して流れるBGMや、エンディングで使用される楽曲のインストも同様である。これもまた、批判が多いことは承知している。特にBGMは「どれも同じ」「場面に合っていない」という評が多くを占めていると認識した。

 しかしながら、この「どれも同じ」というのはある意味素晴らしい事である。それはまるでバッハの「ゴルトベルク変奏曲」「音楽の捧げ物」「フーガの技法」に代表されるような、「たったひとつの主題を様々に展開する」形態の楽曲に近い雰囲気を感じられるからである。

 「たったひとつの主題」であるからこそ、そこには制約が伴う。

 もちろん制作陣がそうした縛りを設けたかは知る由もない。しかし少なくとも私には、言うなれば「シャイニーカラーズ変奏曲」とでも言って良いような、同じ主題に貫かれた楽曲群が12話通して流されることで、全体の雰囲気が統一されているようにすら感じられるのである。そしてそれは少なくとも私にとっては、独我論的世界観を見出し、全身で感じるための助けともなる。

 エンディングに楽曲のインストを流すのもまた然り。人の声を敢えて排してエンディングに流す時間、それは私に充分な時間─余韻に浸り独我論的世界観を感じる時間─を与えてくれる。

 ここまで述べると「逆張りではないか」とも言われそうだが、実際はそうではない。

 シャニアニの感想が出回る前に、劇場先行上映での初見状態でそのように感じられたのだから、これは誰にも依らない私自身の感覚であろう。

 そして、このように述べること自体が「私」という「主体」によって限界づけられた「私の世界」を構成する諸要素のひとつとも言える。つまり、ここまで述べてきたことは全て「私自身の独我論的世界観」の中での出来事なのである。

 シャニアニについて語ることが、私自身の独我論を語ることにつながる。これぞまさに僥倖中の僥倖である。この独我論が完遂されているかどうかは別として、私がその途上にいる事だけは間違いない。

 今後2nd seasonを観ることで、「私の世界」にどのような変化が訪れるのか。

 じっくりと感じ、思索に耽りたい。楽しみである。

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 以上です。やっとこさ書けたな、という思いです。

 学生時代、机にかじりついてひたすらレポートを書いていた頃を思い出しました。懐かしくもあり、楽しくもある。純粋に哲学に勤しんでいたあの頃を。そんな事を思い出させてくれたという点においてもシャニアニには感謝ですね。

 ありがとう、シャニアニ。2nd seasonも見届けますよ。

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