あえて何も調べずに美術館に行く
美術館に行くときはあえて何も調べずに行くのが良いと思う。ズボラに行ったほうが、心の琴線に触れる作品を見つけやすくなると思うからだ。
初めて美術館に行ったのは大学生のときだった。「アートを語れるとカッコイイ」と思ったのがきっかけだった。
事前に画家や作品の背景、なぜ評価されているかは調べてある。今日は全ての作品を舐めるようにみて、作品の説明文もすべて読んで味わい尽くそう。そう意気込んで美術館に向かった。
展示の出口につく頃には疲れ果ててヘトヘトになっていた。色んな作品をみたが、事前情報どおりに作品をみようとしても、イマイチ良さは分からなかった。何より、ずっと歩きまわっていたので座り込みたい。
「もう二度と美術館に行くもんか」
そう思った。
社会人になり、「これからはMBAよりもアートを学ぼう」という言葉が周りから聞こえてくるようになった。
「アートを語れるカッコイイ自分」に未練もある。ちょうどフェルメール展が開催されていると話題になっている。久しぶりに美術館に行ってみようと思った。
前回の失敗を活かして今回は目玉作品だけ調べて、それだけをじっくり見ようと思った。正しい美術館の楽しみ方ではないかもしれないが、疲れるよりはいい。
今回の目玉作品は「牛乳を注ぐ女」だった。作品の背景、構図が素晴らしいこと、小物まで細かく描かれていること、電車の中でいくつかのサイトをみて勉強をしていった。
美術館に着き、他の作品はそこそこに「牛乳を注ぐ女」を早くみようとズンズン進んでいった。
だが、ふとある作品をみて立ち尽くしてしまった。
「真珠の首飾りの女」だった。
ひと目みて「これは本物だ」と思った。
美術館は2回目で、「本物」なんて分かるはずもないのに自然とそう感じた。
上着の袖の金色が言いようもなく美しかった。
質量を持った暖かいものが胸の真ん中に浮かんでいて、じんわりと鼓動しているように感じた。
なぜか涙が出そうになった。
「牛乳を注ぐ女」をみるのを忘れて、しばらく「真珠の首飾りの女」を眺めていた。ふと我に返って「そうだ。今日の目的は『牛乳を注ぐ女』だったんだ」と思い出した。
実物をみた。
たしかに素晴らしい気がする。
事前知識どおり、構図も小物の描写も上手な気がする。
だが、「真珠の首飾りの女」ほど訴えかけてくるものがない。
「そんなはずはない。これが目玉作品なのだから」と必死に良いところを探そうとしたが、結局先ほど感動できなかった。
もう一度「真珠の首飾りの女」みたあと、美術館をあとにした。
帰り道に、なぜ「牛乳を注ぐ女」に感動しなかったかを考えた。事前情報どおりに作品をみたはずだった。構図も色づかいも、小物もしっかりみた。
「ちゃんとみたはずなのに」と思ったときに気づいた。無理に感動しようとしていたのではないかと。
「牛乳を注ぐ女」は事前情報から判断した、感動すべき作品だった。一方、何も調べなかった「真珠の首飾りの女」こそが、自分の感性が判断した感動してしまう作品だったのだろう。
これはアート以外にも言えると思う。知識や情報に引っ張られて、自分にあわないものまで良いと感じようとしてはいないだろうか。
「みんなが良いと言ってたから」「食べログの評価がよかったから」という言葉に引っ張られて、知らずに情報を味わっているときが多いのではないかと思った。
あえて何も調べずに、自分の五感のみを使って評価する。「真珠の首飾りの女」はそれを教えてくれた作品だ。
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