お笑い観とB層としての自覚
アラサーの仲間入りをした男がお笑いを通して自分自身を振り返ってみた。
小学生の頃には『エンタの神様』や『爆笑! レッドカーペット』などのいわゆるネタ番組が隆盛を極めていた。好きな芸人も存在するが、しかしながらそこから得たものは非常に少ない気がするのだ。
・お笑い観賞は趣味として成り立たない
そもそもお笑いというのはどこか肩身の狭いものである。芸人は社会不適合者の集まり、河原乞食……そんな風に形容されることは少なくなったとはいえ、いまだに偏見のようなものはある。お笑いに対する姿勢、向き合い方などは地域差も大きいだろう。
たとえば映画鑑賞などと比較すると、どうも地位が低いというか、お笑い(お笑い観賞)というのは、少なくとも履歴書の趣味欄に書くようなものではないという風潮が漠然と、しかし確かに存在している。
ただ、TikTokなどの10代を中心とした媒体についていけない人間には、数分程度のお笑い動画は、ドラマや映画などと比較してとても手軽である。劇場まで足を運ぶほど熱心ではないものの、賞レースや動画はチェックしている自分は、芸人サイドからすれば、もっともありがたくないファンであろう。
・B層としての自覚
こういうことを言うと、ひょっとしたら「被害者気取り」のように受け取られるかもしれないが、私は多感な時期のブームにより、お笑いを好きになったというより好きにさせられたのだと思う。それは、突き詰めればB層としての自覚であり、それによって生じる劣等感なのかもしれない。
むろん、環境から全く影響を受けない人間などいない。それを踏まえた上での話である。
一口にまとめてしまえば「愛憎」なのだと思う。上岡龍太郎氏が提唱したお笑い論(メディア論)の受け売りのようになるが、現代日本のお笑い、その様式・形態というのは、どこまで行っても素人芸の延長である。
それに対して、わずかな疑問や不満を抱きながら、ズルズルと今日まで受け入れてきたのだ。程度の低いものを肯定するということは、すなわち文化崩壊の一端を担う、ということである。
先ほど手軽さと言ったが、それゆえにドラマのように"切る"ことができなかった。たとえ5分間のネタ動画だろうと、12本見れば60分である。
至極当たり前のことだが、コンテンツの長さと面白さは必ずしも比例しない。4時間の映画が必ず面白くて、一発ギャグが必ずつまらないわけではない。
以上の内容がもしお笑いレビューブログの最終更新だったなら良いオチだった。