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多武峰のペガサス

 永保元年、たしかあれは弥生の頃だったじゃろうか。興福寺の僧徒がめちゃめちゃに暴れよった。わしは歴史を意図的に覚えないようにしておるから曖昧なんじゃが、あの年の夏に、僧徒共がめちゃめちゃに暴れよったのだけは覚えておるんじゃ。彼奴らはわしらが暮らしておった多武峰の民家を焼きよってな。多武峰の民家をめちゃめちゃに焼きよって。たいそうめちゃめちゃに暴れたんじゃよ。あの晩わしは、幼い弟と妹を背中におぶって、めちゃめちゃに逃げた。

(もう少しの辛抱だ、ババアのペガサスが来るまで時間を稼げ……!!)

泣きじゃくる弟らを励ましながら、絶え間なく黒煙を噴き上げて紅炎に染まる闇夜の多武峰を走った。めちゃめちゃに、走ったんじゃ。

ババアのペガサスは、とうとう来んかった。

初めて裏切りの味を知ったわしはまだ、十の泥人形じゃった。握りたてゆるゆるの、自我もまだ地中に深く埋もれて発芽すらしていなかった小童じゃ。あの時わしは裏山に一人立ち、怒りと絶望の最中で、眼下に燃え広がる多武峰を見据えながら決意した。

(あの天下りババアを、ペガサス三銃士の座から引き摺り下ろす……!!)

貪欲の悪魔ベヒモスに臓物を貪られたわしは、幼い弟と妹を興福寺に置き去りにして、めちゃめちゃに走った。額に幾十百もの蛍がぶつかるたびに、暗闇を手で掻きむしった。しばらくめちゃめちゃに走っておると、いつの間にか多武峰の麓に辿り着いていたんじゃろうか。急に霧が晴れて視界が開けた途端に、誰かにぶつかったんじゃ。

それは興福寺の四天王立像のように、分厚い胸板じゃった。わしは胸板に弾き飛ばされて数メートル後方へ吹っ飛んだんじゃが、そこにはまたもう一枚の、別の分厚い胸板が立っておった。
わしはその胸板に受けとめられるような形で、事なきを得たんじゃ。

「……おい小童よ、こんな時間にひとりでなにをしておるのだ?」

前方の胸板が、低い声でわしに話しかけてきた。

【続く】

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