エントモファガ・グリリ
発酵した鼠の脱け殻が落ちている。ガラス瓶のなかのシロップ漬けの果物から、突然浮かんでくる泡粒のように、分解は内側から不意にやってくる。何の前触れもないまま。隣の部屋に越してきた見知らぬ誰かの聞きなれない足音を聴くようになってから、階段の隅の吹き溜まり、塵芥の暗がりのなかに溜まっている、細く千切れた小さな脚や七色の金属光沢のある甲虫の鞘翅、それらに覆い被さるオカダンゴムシの群れや蠢動するヤスデの幼体が、よく目に留まるようになった。
ベランダに並べた鉢植えの羽蝶蘭がすっかり枯れて、地中の球根だけになってしばらくしてから、朝はようやく涼しくなった。カーテンを開けると、アパートの前の歩道を白い老犬とおじいさんが通り過ぎていく。たぶん早朝の散歩から帰ってきたところだ。アパートに越してきた十年前は、まだあの老犬は白い綿毛のようだった。この時期にすれ違うと、いつも鼻先に金木犀の花がとまっていた。
日没が早くなるにつれて、近所の里山をよく歩くようになった。主治医から口酸っぱく散歩を毎日するように言われていたが、明るい陽だまりのなかに立っていると、どうしても、自分という肉体が自分とは無関係に、ただ生きようとしていることを実感してしまうのが耐えられなかった。数ヶ月ぶりに訪れた里山は、例年よりも遅咲きの曼珠沙華で埋め尽くされていた。稲穂が刈り取られたあとの、雑草もまだ伸びていない棚田の段々を、曼珠沙華の目の醒めるような紅い畦が縁取っている。ぼんやり棚田を眺めていると、子供の頃に大切にしていた紫色の瑪瑙のスライスに浮かんでいた、不規則でゆがんだ波紋のような模様を思い出す。石のなかの波も、棚田の波も、静止画のように息を潜めたまま動かない。目を凝らして見ていると、棚田の紅い波がゆっくりと揺れだした。その波間に、子供の頃に祖父と海岸で見つけたシオマネキが歩いている。「不気味な奴らだ、利腕ばっかり大きくなりやがって。」祖父は寡黙なひとだったが、たまに喋ると口が悪かったから苦手だった。
里山をしばらく歩いて、いつもの無人販売所で太秋柿を三個買った。アパートに帰宅したころには、すっかり日が落ちて、階段の隅の暗闇が膨張しはじめていた。見てはいけないような気がして、目を逸らしながら、一気に駆け上った。部屋の前で鍵穴を探していると、背後から照らされた。紙パックジュースのように電子タバコを銜えた男が、こちらにスマホを向けて立っている。そういえばマッチングアプリとかいうものを先週からやりはじめて、たしか今晩にそういう約束をしていた、誰かだった。
「木根間圭介です。」玄関で手渡されたコンビニ袋の中に、蟹漬と缶ビールが二本入っていた。「どうも、桃木流川です。」そのまま真っ直ぐに玄関から直進する背後を、木根間も真っ直ぐに追従する。途中で左折して寝室に入る。木根間は右折して、そのまま浴室でシャワーを浴びはじめた。ベットにブルーシートを敷いた。そのうえに薄いバスタオルを広げる。父親が勤めている会社名が、太字のゴシック体で大きくプリントされていて、少しだけ気まずくなった。
「母親の読み聞かせみたいなの、いるか、」ドライヤーで髪を乾かしながら、木根間が叫んだ。「要らない。」と叫んだ。映画が終わったあとの、エンドロールが終わるまでとりあえず席を立たないみたいな感じとかも、欲しくはなかった。
横たわると、木根間は無言で覆い被さってきた。天井の水漏れのシミが増える。シミの大陸が増えているような気がした。今朝の白い犬のことを、考えた。今頃は眠っているだろうか。実家で昔飼っていた犬はよく、水を飲むだけの夢を見ていた。木根間の右腕はやたらと大きかった。膨張している。腕の動きにあわせるように、潮は満ち引きをはじめた。干潮から満潮へ。満潮から干潮へと、絶え間なく繰り返した。「なにを考えているんだ、」穏やかな波のように、木根間の体温が皮膚のうえを過ぎていく。「……里山を歩いていたんだ、続きを。畑の脇道に足を踏み入れると、いっせいにバッタが飛び立った。十数匹、それ以上だったかもしれない。ツマグロバッタの群れだった。今年は数が多いと思った。この時期になると、この畑には毎年オクラの淡い黄緑色の花が咲いていて、好きだったんだ。でも数年前に耕作放棄地になってからは、背高泡立草の花で一面が、鮮やかな黄色に染まっている。それはそれで、二メートル以上もある茎を目で追っていると、きめ細かい黄色の花序へ登る途中の茎に、三匹のバッタが肩を抱き合うようにして、静止していた。不思議に思って他の花の茎を見ると、どの花への道にもバッタがしがみついたまま、力尽きていた。ほんのついさっきまで、生きていた気配をのこしながら……。」
電子タバコを紙パックジュースみたいに銜えて、蟹漬を缶ビールで流し込む。「食べてよ、」沈黙に耐えられなくなって、枕元に置いていた太秋柿を剥いた。バッタの話をしながら、強くしがみついた木根間の背中には、紅い曼珠沙華が咲いていた。
玄関のドアを開けると、月あかりの階段の隅に、蛾が一匹、翅を休ませていた。
「円陣を組んで死ねたなら、幸せだったんじゃないか。」
駐車場で木根間は、軽く右手をあげた。祖父と見たシオマネキのwavingも、たしかあんな風だった。バイクのエンジン音が遠ざかる。そのまま秋の星座になりたい、そう思った。
爪の先の温かい感触を、風を感じる触覚を、枝をのぼっていく自分の後ろ姿を。
あれから繰り返し、思い出してばかりいる。