【ハーモニカ仁義】 ハリウッドで出逢った巨匠、エディ・ローレンス・マンソン【仲村哲也】
仲村哲也(TEX NAKAMURA)の『ハーモニカ仁義』
第7回 ハリウッドで出逢った巨匠、エディ・ローレンス・マンソン
(Eddy Lawrence Manson/1919~1996)
私が渡米を決意し、移住する前に幾度が視察と称しロサンゼルスへ訪れていた頃、とあるご年配の知人から「貴方が今後ハーモニカ吹きとして、このアメリカで生きていく為に是非知っていて欲しい人がいます」と紹介されたのが、エディ・マンソン氏でした。エディさんは、ジュリアード音楽院とニューヨーク大学ラジオテレビ大学を優等で卒業した映画音楽作曲家で、国際的に有名なハーモニカの名手です。10ホールズも演奏しますが、クロマチックハーモニカを主に演奏されていました。最も有名な演奏はご存知の通り、あのオードリー・ヘップバーンが1961年に主演した映画「ティファニーで朝食を」のオープニング場面でのヘンリーマンシーニ作「ムーンリバー」ではないでしょうか?
若干15才で、ハリウッド映画で活躍したコメディグループ『ハーモニカ・ラスカルズ/1933年』に参加し、大戦中は米軍慰問協会を介し各地軍事基地を廻り、1950年代にはあのエド・サリバン・ショーに頻繁に出演したり、ミッチ・ミラー・オーケストラにも参加されてました。その後はテレビ番組や映画の音楽を制作し、様々な世代のアメリカ人の記憶に刻まれた作品に貢献しました。『史上最大の作戦/1962年』、『オクラホマ巨人/1973年』、『歌え!ロレッタ愛のために/1980年』、『7月4日に生まれて/1989年』などで聞くことができます。 マイケル・ジャクソンやジャクソン5などにも曲を提供されました。正にハリウッドエンターテイメント産業を長年に渡り支えてきた生き証人の様な方でした。晩年は、UCLAで映画のスコアを教え、Overture誌のコラムを執筆した後、米国音楽アレンジャーと作曲家協会の会長に就任し、映画音楽保存協会の理事をも務めていました。 彼は1980年代後半にクリエイティブアーツテンプルの音楽ディレクター兼副社長を務め、1993年と1994年にはテンプルショロムアレイケムのアーティスティックディレクターをも務めました。 私はハーモニカ奏者としてのエディさんは存じ上げておりましたが、そんなアメリカのエンターテイメント業界に偉大なるクリエーターとしてその人生を捧げた方とは後に知りました。
私は、1991年当時、幸運にもご自宅に招かれ、とても有意義な時間を過ごしました。駆け出しのアジア人ハーモニカ吹きの私に、ご自分の作品を聴かせてくれたり、それにまつわるエピソードなどを嬉しそうに話して下さいました。そして、「自分を信じて、思いっきり演りなさい」とご教示頂きました。エディさんの優しい瞳の奥にキラリと光った厳しい眼差しに、ヘラヘラヤッてイケる世界なんじゃないんだぞッと改めて思いました。帰り際にはご自分で編集されたハーモニカ音源のカセットテープを下さりました。自分にとっては一生忘れられない出来事でした。 エディさんは、1996年に77才で他界されましたが、現在でも御冥福をお祈りしています。 エディさん、どうか安らかに。本当にありがとうございました。
(2020.10 ハーモニカライフ90号に掲載)
仲村哲也 (TEX NAKAMURA)
-Profile-
1980年代始めまで、自己のバンドでエレクトリック・ベースを担当していたが、1950年代のサウンドに取り憑かれ、アップライト・ベースに転向。
1983年に、FENから流れてきたJ ガイルズ・バンドの「ワーマージャマー」に衝撃を受けハモニカを手にする。
妹尾隆一郎氏に師事し基礎のテクニックを収得。その後は、「F.I.H.ハモニカコンテスト」入賞、アポロシアターのアマチュアナイト・チャンピオンシップに出演(日本人初)するなど、数年の間にトップクラスのハーピストとして活躍する。
以後国内でスタジオミュージシャンとして数多くの録音に参加。1992年渡米。
西海岸人気ファンクバンド「WAR」にリーオスカーの後釜として抜擢され、年間平均100本ワールドツアーに13年間参加。Tex NakamuraやWeeping Willow(咽び泣く柳)の名で、現在も米国ロサンゼルスを拠点に幅広い音楽性と美しい音色で活動中。
●オフィシャルWebサイト
http://blueslim.m78.com/nakamura_tetsuya.html