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悪(あく)について

映画「ロード・オブ・ザ・リング」見すぎの中、「鎌倉殿の13人」の中で北条義時がどんどん「悪」になっていくのを見て、悪について考えました。

悪からイメージするもの。権威・権力・加害・不潔・裏切り・恐怖・高慢。
善は多分、悪の反対側というくらいで、「善」として独りで(意味として)立つものではないように感じました。とすると、悪がなければ善はないということになります。

善人の政治家は大物にならないとすれば、悪を引き受けた人だけが物事を前に進めることが出来たり、先頭に立ったりできるということになります。同じく、単に善人の社長さんの経営する会社は、大会社にはなりえないということにもなります。

一方、私たち庶民は、お金がなくても権力が無くても、「自分自身が善人である」とか「自分は正しい」と思うことで、文句を言いつつ実は幸せに生きることが出来るように思います。そうすると、私たちがある程度幸せに生きていくことが出来るのは誰かが悪役を引き受けてくれたからということになります。

今、政治が混乱し嫌な雰囲気になっているのは、悪役を引き受ける人がいないからなのかもしれない。政治家で権力もあるのに善人ぶっている(本当は悪人なのに!)もやもやポイントはここなのかも。と思いました。

圧倒的多数の庶民が、自分のことを善だと思って暮らせることが平和な暮らしなのだとすれば、やっぱり、誰かが悪を引き受ける必要があるのだと思います。どこまで歴史を遡っても、ファンタジーでも神話でも、完全にもめごとがない世界なんかないのだから。

ホビット庄のほのぼのした暮らしの中でも、メリーとピピンは野菜泥棒をしていました。頑張って育てた野菜を盗まれた人にしてみたら、ささいなこと、なんて思えないはずです。

今は「悪」判定されると、世界中からその悪が滅びるまで非難され続けます。人は悪判定されないために「善」の行いをしなければならないのですが、「善」がどれだけ増えてもその中の小さな「悪」は非難されます。なんて息苦しい世の中なのでしょうか。

闇落ちという言葉もありました。闇と悪はちょっと違う気がします。
闇落ちというのは、もう、悪を自認するということでしょうか。悪役を引き受けることと闇落ちすることはちょっと違っている気がするのです。イメージとしては「泣いた赤鬼」の青鬼です。
行き先が正しいかどうかわからなくても、進まなければいけない場合、青鬼は必要なんだろうなと思うのです。私たち庶民の考える「善」の中には悪とまではいかないけど「怠け」「諦め」「お任せ」が含まれているのだから、フロド達に任せたように、ある程度方向は任せたうえで、守るべきホビットらしい暮らしを続けるのがいいのかも。

ここでいうホビットらしい暮らし=文化。守るべき文化って何?もうお手上げ。


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