「思考する」とは思考をずらすことではないだろうか

子供の頃からずっと思っているのだが、紙に書いた自分の思考は自分の思考ではない。声に出した自分の発言は自分の思考ではない。
それらは言葉のルールやその他物理的制限に頭の中で考えている時はくっついていた微妙なニュアンスや文脈がバッサリ切られた思考の"死体"でしかない。
しかし、現実としてはそちらの方に価値があるのである。自分の頭の中で不定形でグニョグニョしている自分にとって一番大切な"ナニカ"、それの方が世界にとっては最も無価値なものになるのだ。

初っ端から話がずれた。

ぶつ切りにされたかつて思考であった言葉は、ぶつ切りにされたなんらかの物理的な存在であることにより別の価値を持ち出す。
その言葉は別の言葉と組み合わせたり、表にしたりすることで新しい価値を何故か生み出すようになる。
例えば、思いついたことを5W1Hの表にまとめていくと、その抜けに気づくことができる。「おや、whenの枠が空白だぞ。時系列の情報が全くないではないか」という風に。

思考とは、情報とは、元々の形から別のメディアに転写されたり、放り込む枠組みを変えたりして微妙に別物に"ずれる"ことによって価値を生み出すのではないか。

そんなことを考え出すと、思考とは何か、自分の主体とは何か、自分だけのオリジナルの考えとはなんなのかみたいなことがよく分からなくなってくる。

こんなことばかり考えている俺の人生のなんと無価値なことか

終わり

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