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戦争に駆り立てる「戦争広告代理店」と言う恐怖

国を戦争に駆り立てる「戦争広告代理店」と言う恐怖

高木徹「戦争広告代理店」


高木徹「戦争広告代理店」

<本の紹介>
「情報を制する国が勝つ」とはどういうことか―。
世界中に衝撃を与え、セルビア非難に向かわせた「民族浄化」報道は、
実はアメリカの凄腕PRマンの「情報操作」によるものだった。
国際世論をつくり、「誘導する」情報戦の実態を圧倒的迫力で描いた作品。

ちなみに、著者の略歴は

高木徹[タカギトオル]
1965年東京都生まれ。’90年東京大学文学部卒業、NHKにディレクターとして入局、現在報道局勤務。
2000年10月放送のNHKスペシャル「民族浄化~ユーゴ・情報戦の内幕~」は、優秀なテレビ番組に贈られるカナダのバーフテレビ祭「ロッキー賞(社会・政治ドキュメンタリー部門)」候補作に。
同番組の取材をもとに執筆した『ドキュメント 戦争広告代理店―情報操作とボスニア紛争』は、大きな話題を集め、
講談社ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞を受賞した。



<見どころ>

「防衛費大増税」や「殺傷武器輸出」「憲法改悪」などによって着々と進んでいる「日本の戦争準備」
不自然な中国ヘイトや韓国ヘイトやロシアヘイトなど様々なヘイトを煽る言説が蔓延する中で、何が起きているか?を紐解くのに
「戦争をPRする会社」「世論工作を請け負う会社」と言う存在を知り、
手口を知ることは有益だと思います。
この本には次のような見どころがあります。
興味があれば、400ページもある大著ですが、実際に読んでみてください。

  • 火のないところに煙を立て」て「戦争に巻きこむ世論」を簡単に作れることの衝撃

  • 西側メディアの「戦争報道が事実と異なる嘘ばかり」であると言う真実

  • PRとは クライアントが有利になるようにあの手この手で「手段を選ばず世論工作をしていく仕事

  • 悪事を企む者にとって「正直で誠実な人間が如何に工作の邪魔であるか?」を理解できる

  • 議会や国務省や政治家やマスコミにドンドン働きかけて「戦争に巻き込んでいく手口」が見られる

  • 西側諸国が「オープン」で「正義」と言う「大嘘

  • 日本が再び戦争ができる国になるように」「敵に対する憎悪」や「どちらが正義か?」を煽って行く具体的な手口が学べる本(ただし、ネットが無い時代の世論工作方法なので、現在はもっと複雑になっていそう。)

  • 今まで戦争報道やニュースで、「表面的な上澄み情報だけ見て満足して、茶番劇にすっかり騙されていた」ショックを味わえる

<あらすじ>

紛争の初期段階では、ボスニア・ヘルツェゴビナは、
ボスニアがユーゴスラビア連邦(セルビア)から独立する正当性と、
セルビアからの不当な弾圧を訴えるために、外相を世界中に派遣する。


ボスニアとセルビアの地図

ボスニア外相は、国連・EC・アメリカ・アラブ世界等、あらゆる場所で、それを訴えるが、なかなか関心を呼ぶことは出来ない。
特にアメリカでは、バルカン半島というヨーロッパでも中心とは言えない地域での内部紛争という理解をされ、アメリカの国益もないためになかなか支援が得られない。

その状況を変えるためにアメリカの営利企業である
大手PR企業「ルーダー・フィン社」と契約を結ぶ。
その社員の「ジム・ハーフ」敏腕PRマンが

マスコミや議会の人脈やネットワークを駆使して
戦争する気の無い国務省」を相手に「火の無いところに煙を立て」て
「マスコミ」に巧みに情報を流して、煽って操っていき、
「ボスニア紛争=ナチスによるホロコースト」と言うイメージを
「ホロコースト」と言う言葉を使わず、「民族浄化」と言う言葉を広めることによって

モスレム人(ボスニア)=被害者
セルビア人=残虐な加害者

と言うイメージを人々に植え付けていき、
議員や議会に圧力かけていき、アメリカを戦争に巻き込んで加担させていく
過程が恐ろしく具体的に詳細に描かれている本。

PRとは実質「クライアントに有利なように世論操作していく仕事」。
そのためには、「事実も巧みに改竄していく

例えば「セルビアの強制収容所」は
実際には存在しなかった」にも関わらず
商業マスコミが「偶然撮った強制収容所っぽい写真」を使って
大々的にまるで「セルビアがナチスのように残虐な加害者で悪の象徴」であるかのようなイメージと国際世論を作り上げていく。

そして、その「世論工作作りの邪魔」になるようならば、
PR会社は手段を選ばない
例えば、「強制収容所の事実がないと否定する発言」をする
真面目で善良で正直で真実を述べるカナダ軍の将軍」を
を謀略を張り巡らせて、陥れてヒーローだった評判を悪化させ、
退職にまで追い込む卑怯な手口をも使う

嘘つき謀略PR会社にとっては「善良で正直で真実を述べる人」は
邪魔な障害」であり、「排除すべき障害」であり、
ズル賢い卑怯な悪党だけ」が「社会の要職」に就いて生き残っていき
善悪が逆転」する「あべこべ世界」になっていく過程がよくわかる。

正直で善良な人たち
嘘や真実がいつか明らかになって、分かって貰える」と
純朴思っていても」知らぬ間に「悪者に仕立て上げられて」、
最悪、国際犯罪者になってしまうなど、悪どい工作がよくわかる衝撃作

以下、本書の引用です。

世界に衝撃を与えた「強制収容所」のニュースは、どうやって作られたか?

ガットマンと言う記者がどのように記事を作ったか?の真相

●「強制収容所」のスクープ第1段の作られた経緯

こうして国連と議会に網を張って「強制収容所」キャンペーンを発動させようとした、まさにそのとき、『ニューズデイ』紙がオマルスカ強制収容所のスクープを報道したのである。

ガットマンは、どのようにしてこの記事を書いたのだろうか?

ガットマンの狙いは、メディアの世界に生きる人間特有の計算に基づいていた。オマルスカのスクープに先立って、ガットマンは「強制移動させられるモスレム人(ボスニア)が運ばれる列車」の記事を取材していた、この話も読者にナチスを連想させるストーリーだった。アウシュビックに運ばれるユダヤ人たちが、列車にぎゅうぎゅうに詰め込まれ運ばれたのは有名な話だ。しかし、ユダヤ人を運んだのが貨車だったのに比べ、セルビア人が使ったのは座席もきちんとある客車だったし、行き先もアウシュビッツではなく、難民としてオーストリアに送りこむためのものだった。

「囚人移送列車」に「強制収容所」と、ナチスを連想させるストーリーをなぜ狙ったのか、という質問に、ガットマンは、
「ナチス的ストーリーを狙ったというより、国営鉄道を移送に使うことや、収容所が存在することは、国家が主体となった組織的な非人道的行為があることの証明になるから取材したんだよ」と答えている。

同時に、
「われわれは、記事を書くのに"package”が必要だからね。強制収容所はそれにぴったりだったんだ」
という表現をした。
ここでいう「package」を意訳すれば「読者の興味をひく一連のストーリー」を探した結果、たどり着いたのが「強制収容所」だった、というのである。

そしてもう一つ、ガットマン自身がユダヤ人である、という事実がある。これについては、
「わたしはたしかにユダヤ人だ。しかし、戦後生まれでホロコーストを体験していないし、記事を書くうえでは自分の宗教や民族性は関係ないね」
と答えている。

ガットマンは強制収容所の記事を書くにあたり、オマルスカには行っていない。別のテーマの取材を企画して、ボスニア北部のセルビア人支配地域に入ったとき、協力者のモスレム人から「近くにオマルスカという場所があり、多くのモスレム人が収容され、虐待されている」という話を聞いて地元警察の広報にオマルスカ取材を申し出たのだ。

セルビア人の広報担当者は、
「いいでしょう、私たちが連れて行ってあげましょう」
と即答した。

ガットマンは、以前にも、この近くにあるマニアチャという別の捕虜収容所を訪れ取材したことがあった。そこにいた囚人たちの待遇はよいとは言えなかったが、「強制収容所」とまで言えるようなものではなかった。

ガットマンにオマルスカの情報を伝えたモスレム人の話では、オマルスカこそ強制収容所と言える場所に思われた。そこに案内してくれる、というのである。
「これは大変なスクープがとれるかも知れない」
と、ガットマンはわくわくした。
しかし、しばらくすると、
「現地に連れて行くと、あなたの身の安全が保障できない。だからこの話はなかったことにしたい」
と担当者は前言を翻した。

これを聞いたガットマンは、
「どういう意味だ。警察が同行するのに安全が保障できないなんて、そんなことがありえるか?そうか、やはりこれはオマルスカに『強制収容所』があるからに違いない、それを連中は隠そうというんだな」
と考えた。

しかし、現地警察の許可なしでオマルスカに行く方法はどうしてもみつからず、一旦隣国クロアチアの首都ザグレブに退いた。
そこから、アメリカの本社の編集者に電話をかけ、
「強制収容所がある、というんだが、現地に入れないんだ」
と、相談した。編集者は、
「オマルスカに行けなくても、そこから逃げてきた囚人がいるんじゃないのか?そのインタビューをとれば記事にできるだろう」
と答えた。
「そうか、そういう手があるかもしれない」

ガットマンは、今滞在しているザグレブにも難民キャンプがあり、そこにボスニア・ヘルツェゴビナから逃げてきたモスレム人がいることに思い当たった。

さっそくキャンプに赴いたガットマンは手当たりしだいに難民たちに話を聞き、ついにメホたち二人の「オマルスカ出身者」の「強制収容所」についての証言を得ることに
成功した。ガットマンは、この証言の「ウラ」をとるために、国際赤十字や国務省の担当者に取
材した。「オマルスカには強制収容所がある」とは誰も言わなかった。しかし、「そんな記事を書くことはやめろ」と言う者もいなかった。国際赤十字の担当者は、
「われわれもオマルスカに入ることを許されていないんだ。もしそこが『死の収容所(deathcamp)』でなければ、彼らは私たちを入れるはずだと思う」
と言った。

ガットマンは再び本社に連絡し、この経緯を説明した。
「よし、それでいい、記事を送ってくれ」
と編集者は言った。ガットマンは躊躇した。
「あと四十八時間、いや、二十四時間あれば、もっとデータが集められるんだ」
しかし、編集者は、
「もうこれで取材は十分だ。それより記事を送ってくれ」と強く言った。ガットマンはその指示に従った。

「自分の記事が早く出れば、より多くの囚人の命が助かるかもしれない、と思ったんだ」
と、ガットマンは言う。

原稿が送られ、本社の編集者は「死の収容所」と見出しをつけ、一面トップを最大級の活字で飾った。
セルビア人の「強制収容所」を、はじめて本格的に世界に知らせる記事は、こうして書かれた。それが十分な取材と裏づけに基づいたものかどうか、判断は難しい。ガットマンは現場には行っていないのだ。すべてはまた聞きの情報である。だから、現在もセルビア人の中には、ガットマンの記事は信用できない、と言う人もいる。もちろん、ガットマン自身は自分の記事に自信を持っている。
ガットマンは、このスクープでピュリッツァー賞に輝いた。

高木徹「戦争広告代理店」第10章p212〜217

PR企業が「ワシントンやニューヨークの本社」を狙って工作する理由


記者は本社の意向を忖度しながら記事を書く

ガットマン本人はルーダー・フィン社のリストにはのっていないが、『ニューズデイ』紙の国務省担当記者で、編集者でもあるサウル・フリードマンは、「ボスニアファックス通信」を受け取っている。フリードマンは、定期的にガットマンと連絡を取りあっていた。ガットマンの証言にもあるように、情報を集め記事を書くのは現場の記者であっても、それがどのような形で、どのタイミングで記事になるかについては、編集者の意図が大きく働く。

これは、ファクスと電話がコミュニケーション手段の中心だった当時もそうだが、インターネットと電子メールの現在でもかわらない。つまり、PR企業が現場の記者にアクセスできなくても、ワシントンやニューヨークの本社に何らかの影響力や情報を与えられれば効果をあげることができる。
ガットマンの場合には、ハーフの『ニューズディ』本社への接触があったからこのスクープが報道されたとは言えないが、

現地からリポートを送り続けていたNPR(全米公共ラジオ)のシルビア・ポジオリ記者は、
「ボスニア・ヘルツェゴビナの現場で、若い記者たちが本社の編集者の指示をうけて、現場で見聞きした事実を曲げて伝えるような記事を送っていたのを何度も見ましたよ。PR企業もそれを知っていて、メディアの本社を狙っていたんです」
と述べている。

高木徹「戦争広告代理店」第10章p217〜218

「強制収容所」のニュースの作り方第2段

実は第1段の「強制収容所」は現地取材でなかったのに、
なぜ「強制収容所ニュース」は事実化したのか?

●「強制収容所」のスクープ第2段の作られた経緯

そのころ、ボスニア・ヘルツェゴビナ北部では、イギリスのテレビニュース制作会社、ITNの取材クルーが、ガットマンの記事にあったオマルスカ収容所に向かっていた。「死の収容所」が簡単に取材できるわけはない、と思っていたが、ボスニア・ヘルツェゴビナ領域内に住むセルビア人たちの指導者、ラドバン・カラジッチは、
「いいだろう。取材してみればいい」
とあっさり許可した。

そこでITNクルーは、西側の報道機関として初めてオマルスカを取材した。そこで取材陣が見たものは、「捕虜収容所」の概念にあてはまるものでしかなく、アウシュビッツに匹敵するものではなかった。取材が許可されるくらいだから、すでに「強制収容所」に該当するような行為の証拠はどこかに隠されてしまったのかもしれない。

そのときのクルーが本社からどのような指示を受けていたか、クルーを率いていた女性記者、ペニー・マーシャルは『ザ・タイムス』紙の日曜版に正直に述べている。
「私たちは、本社から、収容所の取材をしネタをみつけるまでは、他の記事はいっさい送る必要はない、と命令されていました」

取材クルーは、次にトルノポリエというオマルスカの近くにあるもう一つの収容所を取材した。そこも、衛生状態は相当に悪く、拷問や殴打が行われているという証言もあったが、「強制収容所」とまで言える場所ではなかった。ただ、真夏の暑い時期で、野外では上半身裸で過ごしている人も多かった。
その中にはひどくやせている男性もおり、あばら骨が浮き出ていた。マーシャル記者と同行していたカメラマン、ジェレミー・アービンは、一人のやせた若い男にフォーカスをあわせ、撮影した。アービンとその男の間には、有刺鉄線が張られていた。
前に述べたように、別のドイツ人ジャーナリストによる戦後の調査では、この有刺鉄線は囚人たちを閉じ込めるためのものではなく、紛争前からその場所にたまたまあったものだが、結果的に映像の構図はやせさらばえた男が有刺鉄線の向こうにいる、というものになった。
この構図が、きわめて重要な意味を持った。

クルーは、結局トルノポリエでも「強制収容所」を見ることなくボスニア北部を後にし、取材拠点としていたハンガリーのブダペストに戻った。そこで編集機にテープをかけた時、初めてこの映像の持つインパクトに気がついた。有刺鉄線越しの、やせ細った男の映像、それはまさに人々が心の中に持っている「強制収容所」のイメージそのものだった。
この映像は、すぐにイギリスに伝送され、8月6日の夜、ITNのニュースで放送された。

ハーフはこの映像について、いち早く翌日の「ボスニアファクス通信」で報じている。そして、アメリカ中の放送局や新聞、雑誌社がこの「やせた男」の映像を争うように購入し、自らのメディアで流した。繰り返し流される衝撃の映像に、アメリカ世論は沸騰した。

『ニューヨーク・タイムス』紙は「セルビア人を甘やかしてはならない」という社説を掲載し、「何千人もの人々が強制収容所に捕らえられている」と論じた。

議会でも、有力議員たちが次々に「強制収容所」という単語を使い、ナチスになぞらえてセルビアを非難した。

そして、ブッシュ大統領が、
「セルビア人たちに捕らえられた囚人の映像は、この問題に有効な対処が必要なことを示す明らかな証拠だ。世界は二度とナチスの”強制収容所”という神をも恐れぬ蛮行を
許してはならない」
とホワイトハウスの記者会見で話したことで完全に流れが決まってしまった。

高木徹「戦争広告代理店」第10章p221〜223

現在パレスチナの虐殺で問われている西洋社会での人種差別

「やせた男」の映像が大きな反響をもたらした背景には、悲惨な姿をさらしていたのが欧州の白人だったということもある。『ニューヨーク・タイムス』紙のバーバラ・クロセット記者は、「ヨーロッパの人だと一目でわかる顔をした人が残虐行為を受ける絵柄に、人々はショックを受けたのです」と言っている。同じ構図の中にいるのがアフリカの黒人だったら、西洋社会にこれほどの衝撃は与えなかっただろう。

ともあれ、ハーフにとってこの展開は幸運だった。
ガットマンもITNも、ハーフが働きかけて取材に行かせたわけではなかった。しかし、ガットマンの記事より早く「オマルスカ強制収容所」の情報を流していたことでわかるように、ハーフの情報は、彼らの取材より常に一歩先を行っていた。そのため「強制収容所」について新しいニュースが出るたびに、即座に適切な対応をとることができた。

ハーフは
「スクープをもたらしたのは、ロイ・ガットマンのようなジャーナリストたちの努力の賜物です。私たちがしたのは、彼らの記事を広め、人々の目を覚まさせることだったのです」
と言っている。

高木徹「戦争広告代理店」第10章p223〜224

後追い報道と世論喚起の仕組み

赤旗でスクープを報じても、「主要メディア」が後追い報道しないのは
世論を喚起したくない意図が働いている。

●後追い報道と世論喚起の仕組み

私もメディアの人間なのでよくわかるが、私たち自身、他のメディアが伝える情報を参考にして取材することは多い。他社の記事からヒントを得てテーマを定めることもある。ある一つの情報が最初にスクープの形でもたらされた場合、それが大きな波となって広がるかどうかは「主流」とされる他のメディアがこぞって後追いをするかどうかで決まることが多い。とくに、最初のスクープが「主流」でないメディアで行われた場合、他のメディアの動きが重要な鍵を握る。ハーフはそれを熟知していた。

高木徹「戦争広告代理店」第10章p224

ハーフの国連での「戦争に巻き込む工作活動」

●ハーフの国連での「戦争に巻き込む工作活動」

そしてハーフは、事前の準備を十分に生かして、「強制収容所」の衝撃を、時をおかずに国連と議会での動きに結びつけた。

あらかじめフィリップスとマザレラを送り込んでいたニューヨークの国連とワシントンの連邦議会から、次々と新しい知らせが入ってきた。

まず8月11日、議会の上院と下院は、それぞれセルビアを厳しく非難する決議案を採択した。上院決議案の検討にはマザレラのいるディコンシニ議員の事務所が深くかかわっていた。ハーフのもとにマザレラから事前に送られた決議案の草稿が残っている。手書きの修正跡や書き込みだらけのその案文は、ボスニア紛争での状況を解決するために「すべての必要な手段」つまり、軍事力の行使も支持する、という内容だった。

高木徹「戦争広告代理店」第10章p225

議員に同調圧力をかけて賛成させる仕組み

●議員に同調圧力をかけて賛成させる仕組み

こうした決議に強制力はないが、セルビア非難に賛成か反対か、議員一人一人に「踏絵」を踏ませる意味があった。
ドール議員の秘書、ミラ・バラタは、
「もし、決議に反対者がいたら、その議員に『セルビア人の行為のどこを支持するというのか』と詰め寄って味方になるよう説得することができる」
と、議会で決議を採択することの効用を説明している。

高木徹「戦争広告代理店」第10章p225

「武力行使」にエスカレートさせる手口

●「武力行使」にエスカレートさせる手口

続く8月13日に国連安保理で採択された決議には、「ボスニア・ヘルツェゴビナ政府代表部からもたらされた文書に基づき」という表現があった。
それはニューヨークのサチルベイ大使とハーフとの間でファクスを往復させて練り上げられた文案のことをさしていた。決議はボスニア・ヘルツェゴビナ政府の主張をほとんどそのまま取り入れたもので、セルビアを徹底的に非難している。本文に「強制収容所」という単語を使うことこそ避けていたが「捕虜収容所での市民の強制収容や暴行」という表現が盛り込まれた。これが世間一般で流布している「強制収容所」を外交用語的に表現したものであることは誰の目にも明らかだった。そして、決議の末尾は、
「決議が守られない場合、安全保障理事会は、次の手段に訴える必要に迫られるだろう」
と結ばれていた。

高木徹「戦争広告代理店」第10章p225〜226

西側メディアに悪役に仕立て上げられたセルビア

パニッチ首相は大統領に責任を押し付けて
セルビアの悪人イメージを払拭して
和解や和平を目指していた

●西側メディアに悪役に仕立て上げられたセルビア

セルビアのペリシッチ情報相は振り返る。
「西側のメディアは何かあると、全部セルビア人のせいにしました。彼らは”悪者”を作るのが好きなのです。そしていったん”悪者”ができると、その”悪業”を、ろくな検証もせずに書きたてて、ニュースとして報道するのです。民主主義の原則である“推定無罪”はセルビア人にはいっさい適用されませんでした」

このときの犯人が誰であるかは、今もって明らかではない。モスレム人(ボスニア)が、セルビア人であるパニッチ首相の命を狙う、というのは動機としてはわかりやすい。しかし、モスレム人に理解を示す発言が目立ったパニッチを過激なセルビア人民兵が狙う、というのも十分にありえる話だった。

狙撃が紛争当事者のどちらかの側によるものだったとしても、その1発の銃弾がパニッチ首相の「逆転の一策」を根底から破壊したことに変わりはない。「平和の使者」としてサラエボに乗り込むパニッチ首相の姿を伝えるはずだったABCのカメラは、非人道的なセルビア人がアメリカ市民を殺害したというニュースを伝えることになったのである。

『ワシントン・ポスト』紙は、
「自分を”平和をもたらす男”として描こうとしたパニッチ首相のたくらみが、カブランの死をもたらした。パニッチ首相は、安全な移動手段を提供するべきだったのに、それを怠った」
と手厳しく非難している。

高木徹「戦争広告代理店」第11章p251〜252

PRのブロがいない事でドンドン不利に追い込まれていくセルビア

●PRのブロがいない事でドンドン不利に追い込まれていくセルビア

それはパニッチ首相を助けるPRのブロがいない、ということに本質的な原因がある失策だった。
もし、ルーダー・フィン社がこのサラエボ訪問を仕切っていたら、カプランやABCクルーを危険に晒すことは絶対にしなかっただろう。装甲車の数が足りなくても、カメラマン一人だけはなんとかパニッチ首相とドナルドソン記者に同行させるか、あるいは一人分しか席がないのなら、ドナルドソン記者をおろしてでもカメラマンを同行させるよう進言しただろう。首相とドナルドソン記者が先に行ってしまい撮影スタッフが残されれば、危険を顧みないで追いつこうとするのはプロから見れば当然予測できる事態である。臨機応変に現場を仕切れる専門家がいなかったことが、取り返しのつかない結果を招いた。

高木徹「戦争広告代理店」第11章p252〜253

PRマンの謀略

●PRマンの謀略

味方のPR戦略に敵対する人物は早期に取り除かなくてはならない。
ハーフの頭の中には、この男を始末する計略が形を表しつつあった。

高木徹「戦争広告代理店」第11章p253

歓迎されていた英雄マッケンジー将軍の凱旋

●歓迎されていた英雄マッケンジー将軍の凱旋

ABCのプロデューサー、カプランがサラエボで命を落とす8日前、カナダの首都、オタワ空港に一人の軍人が到着した。

颯爽とタラップを降りるルイス・マッケンジー将軍はそのとき52歳だったが、年齢よりはるかに若く見え、その容貌には華があった。ブルーのベレー帽は、将軍が国連防護軍サラエボ司令官の任務を終えて帰国したことのあかしだった。
ゲートには数多くの市民が駆けつけ、将軍を迎えた。地元のラジオ局は、二千人の聴取者が「おかえりなさい」というメッセージを書き連ねた巨大なカードを用意して将軍に手渡した。渦巻く歓迎の声に、五ヵ月ぶりの再会となった妻とともに手を振ってこたえる。世界の注目を集める戦火のサラエボで、カナダ軍の名声を高めた英雄としての凱旋。
将軍のキャリアが絶頂を迎えた瞬間だった。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p256

狙われた誠実な将軍

●狙われた誠実な将軍

だが、ワシントンにいるハーフの見方は違った。

「彼は、一つの”障害物”でした。こういう問題が出てきたときは、それがどんな種類のものであれ、見逃すことなく速やかに対処することが大切です」

ハーフのターゲットとなったマッケンジー将軍は、この名誉ある帰国の後、数日を経ずして国際的な糾弾の嵐にさらされるようになった。それは、ハーフのようなPRのプロの”障害物”となることが、いかに危険なことかを物語っている。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p256

なぜ正直で誠実な将軍は狙われて陥れられたのか?

●なぜ正直で誠実な将軍は狙われて陥れられたのか?

では、なぜカナダの国民的英雄マッケンジー将軍が、ハーフに狙われることになったのだろうか?

高木徹「戦争広告代理店」第12章p256〜257

誠実で人気のあったマッケンジー将軍の人柄や任務

●誠実で人気のあったマッケンジー将軍の人柄や任務

サラエボの中でも空港の周囲は最も戦争の激しい場所で、滑走路の脇に設営したカナダ部隊のテントは幾たびとなく砲撃や銃撃を受け、部下が何人も負傷した。パトロールに出た隊員が拉致監禁されるという事件も何回もおきた。そのたびにマッケンジー将軍は、昼夜を問わず現場に駆けつけ、民兵のリーダーと交渉して部下を救い出した。
そうした努力の末に国連軍が安全を確保したサラエボ空港には、毎日およそ二十機の輸送機が二百トンの援助物資を積んで飛来し、包囲された38万人のサラエボ市民が餓死することを防いでいた。

後にメディアから受けた攻撃を考えると信じがたいことだが、サラエボでのマッケンジー将軍は西側の記者に人気が高かった。テレビカメラにも頻繁にとらえられ、六月、七月のサラエボ関連の資料映像を検索すると、将軍の映像が数多くヒットする。人気の理由は、将軍が酒をのみながら本音で語り合うことを厭わないきさくな人柄で、記者たちをいつも大切にしたからだ。

のちに将軍非難の先頭にたった「ニューズデイ』紙のガットマン記者も、
「彼は性格的には好感のもてる人間だった。こちらから取材の電話をかけて不在だったときは、必ず電話を返してくる律儀な性格だったしね」
と言っている。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p257〜258

悪党に不都合な発言をしてしまう正直なマッケンジー将軍

●悪党に不都合な発言をしてしまう正直なマッケンジー将軍

すでに7月にはハーフのもとに、サラエボにいるカナダ人の国連部隊指揮官がボスニア・ヘルツェゴビナ政府にとって不利益な発言をしている、という情報が入っていた。
「悪いのはセルビア人だけではない、戦っているすべての勢力に問題がある」と繰り返し発言している、というのである。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p260

PRマンの情報ネットワーク

●PRマンの情報ネットワーク

ハーフはワシントンから、サラエボ発のニュースや情報をあらゆるルートでモニターしていた。ハーフは言う。

「当時はインターネットはまだ普及していなかったので大変でした。文字通り毎日二十四時間の努力が必要でした。
新聞、通信社はもちろん、アメリカにいるクロアチア人や、サラエボ出身のモスレム人の団体、コソボ出身のアルバニア人の団体など、あらゆるつてを頼って情報を送ってもらいました」
ハーフは、反セルビアの立場をとる各民族の在米団体の間にネットワークを築いていた。このときバルカンでセルビア人と戦闘状態にあった諸民族はもちろん、その後1999年に紛争が起きることになるコソボ自治州のアルバニア人の団体にもこのときから目をつけていた。ハーフはこうした団体に、自分のもとに入ってきた情報を知らせた。その見かえりに、彼らも自分たちのネットワークを通じて現地から入った情報をハーフのもとに送ってきたのだ。

それでも問題のカナダ人指揮官、マッケンジー将軍がサラエボにいるあいだ、ハーフは特別の対処をしなかった。

サラエボ発のニュースは市民が死傷する衝撃的な映像や記事で連日満ち溢れていた。その中でマッケンジー将軍の発言は断片的にしか伝えられず、ホワイトハウスや議員たちの注目を引く恐れは少なかった。マッケンジー対策の優先順位はまだ低い。ハーフは、将軍をしばらく「泳がせて」いた。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p260〜261

「国連軍の中立」を維持する努力をした誠実な将軍

勝利のために人を殺すPRマン

●「国連軍の中立」を維持する努力をした誠実な将軍

将軍はサラエボで、同じ主旨の発言を続けた。セルビア人とモスレム人のどちらにも与しない、中立的な発言をすることに、自分のキャリアに重大な影響を及ぼすほどの大きいリスクがあることに気がつかなかった。

「セルビア人だけでなく、紛争当事者の双方が悪い」というのは、将軍にしてみれば実感そのものだったろう。もともと、国連部隊が「中立」をむねとし、その任務は、紛争に介入することではなく、監視することだったということもある。

「私は中立であることにこだわりました。中立を捨てるのは簡単なことですよ。でもそれは、勝利のために人を殺す、ということです。それを唯一の目的にすることなんですよ」
と、マッケンジー将軍は述べている。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p261〜262

デマが多い「セルビア人の残虐行為」を確かめた将軍

●デマが多い「セルビア人の残虐行為」を確かめた

実際、マッケンジー将軍のもとに寄せられる「セルビア人の残虐行為」の情報の中には、根拠のない、荒唐無稽なものも多かった。
たとえば、セルビア人支配地域にある動物園のライオンの艦には、モスレム人(セルビア)の赤ちゃんが餌として投げ込まれている、という話が真面目に語られ、西側の有力新聞にも掲載された。

律儀なマッケンジー将軍は、この話の真偽を確かめるためその動物園に出向いて調査した。
「うれしいことに、赤ちゃんの姿はなく、餌がなくて飢え死に寸前のライオンがいましたよ」
噂はまったくのデマだった。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p262

「意図的に自分の側の民族の子どもをワザと犠牲にし、相手を残虐な加害者と喧伝する卑怯極まりない残虐な手口」

●「意図的に自分の側の民族の子どもをワザと犠牲にし、相手を残虐な加害者と喧伝する卑怯極まりない残虐な手口」

それだけでなく、紛争当事者の双方がもっと卑劣な手を使っていたことをマッケンジ一将軍は見聞きしていた。
「たとえば、敵を砲撃するとき、迫撃砲をわざと病院の脇に設置するのです。
こちらが撃てば当然敵が反撃してきて、味方の迫撃砲陣地を狙った砲弾がとなりにある病院の小児科病棟にも落ちます。それがサラエボにたくさんいた記者たちの手で報道されて
世界世界の母親たちが同情する、というわけです。国際世論を引きつけるために、自分の国民を犠牲にするやり方ですよ」
と、マッケンジー将軍は証言している。


この「意図的に自分の側の民族を傷つけた」
という指摘について、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は今も否定している。
だが、当時のEC和平特使だったキャリントン元イギリス外相は、今回の取材で、
「ボスニア政府は、きわめて容赦のない方法を使った。その証拠もある」という言い方でそのような行為があったことを強く示唆し、
またマッケンジーの後にサラエボにやってきたアメリカ軍のチャールズ・ボイド将軍はその論文で、
「モスレム人勢力(ボスニア)が【自らの民族を狙撃したり砲撃したりした】と主張している。マッケンジー将軍もそうしたことがあったと当時から考え、発言していた。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p262〜263

紛争地帯で「中立であることの難しさ」

●紛争地帯で「中立であることの難しさ」

大半をモスレム人(ボスニア)が占めるサラエボ市民の間で、マッケンジー将軍の発言は不興をかった。
サラエボ市民サラエボ市民にとって、悪いのは無条件かつ一方的にセルビア人に決まっていた。ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は露骨に不快感を示し、市民一人一人もマッケンジ―将軍を非難した。将軍がサラエボ市内でジープを走らせると、街を歩く子供さえ、指を突き立てる、西洋人にとってきわめて侮辱的なサインをしてみせる有様だった。

憎悪と不信が渦巻く紛争地帯において、「中立」であろうとするのは危険なことだ。「われわれの味方でなければお前は敵だ」というのが、ボスニア・ヘルツェゴビナで戦うすべての者たちのメンタリティだった。その中で「中立」を保とうとする国連平和維持部隊は、双方から敵とみなされる。
マッケンジー将軍も、その危険は十分に承知していたが、部下の命を危険にさらす辛さとストレスがその肩にのしかかっていた。

「命をかけて市民の食料空輸を確保しているのに、誰もありがとうとも言わないのか」将軍は、募る欲求不満を解消するためであるかのように西側記者の前でさらに「中立的発言」を繰り返した。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p263〜264

事態の急変と謀略の始まり

事態が変わったのは、八月初頭だった。
新たにサラエボ入りするフランス、エジプト、ウクライナの部隊とカナダ軍部隊が交代し、マッケンジー将軍も任務を終えて帰国することになった。

ここで一つの不運がマッケンジー将軍を襲った。
同じころ、つまり八月の最初の週、「強制収容所」のストーリーがブレイクした。西側メディアはこの話題でもちきりとなった。

マッケンジー将軍は、ちょうどそのさなかに現地サラエボからアメリカ大陸に帰ってくる英語を母国語とする国連部隊指揮官、という立場におかれた。それは偶然にできあがったシチュエーションで、将軍は自分の立場に対応する準備ができていなかった。

マッケンジー将軍はカナダへ帰国する途上、ニューヨークの国連本部に立ち寄り、国連の幹部たちへの報告と挨拶をすませた後、本部ビルの会見場で記者会見にのぞんだ。
間髪を入れずに投げかけられる質問はマッケンジー将軍の予想したものとは違っていた。

「私は、包囲されたサラエボでの日々がどういうものだったか、と聞かれると思っていました。
ところが記者たちは、自分が何も知らない強制収容所のことばかり聞いてきたのです」
将軍は、そのときのとまどいについてそう話している。

記者が質問した。
「あなたは強制収容所について何を知っていたのですか?」マッケンジー将軍は、記者の語気の強さに、一瞬驚きの表情を浮かべてから答えた。
「何ひとつ知りません。私が知っているのは、モスレム人(ボスニア)とセルビア人の双方が、相手の側にこそ、そういう収容所があると言って互いに非難している、ということだけです」
記者は納得せず、食い下がった。
「今日の午後、安全保障理事会が強制収容所について検討する会議を開きますよね。あなたは、何か特別の情報や秘密を握っていて、証言するつもりではないのですか?」
将軍は、繰り返し否定した。
「そんなことはぜんぜんないんですよ。私たちには強制収容所について調査する義務も能力もありませんでしたからね。私たちの任務はサラエボ空港を守り、援助物資を受け入れられるようにすることです。たしかに私たちはサラエボで国際機関の旗を掲げる唯一の組織でしたから、戦っていた両方の勢力が私に訴えてきましたよ。『相手方は、強制収容所をボスニア中に設置している』と。しかし、私にその真偽を判断しろと言われてもできない相談です」

ハーフにとって、これは見逃せない発言だった。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p265〜266

メディアの受け取り方

マッケンジー将軍は、強制収容所はない、と言ったわけではなかった。自分はサラエボにいたので、ボスニア・ヘルツェゴビナの各地にあるという収容所については知らない、と言ったのだ。
しかし、メディアはそのように受け取らなかった。千数百人の兵士とともに駐屯し、百両近くの装甲車で毎日パトロールして、セルビア人側の司令部とボスニア大統領府の間を何度も往復し交渉するマッケンジー将軍の映像を、アメリカの記者たちはニュースで見ていた。
そのマッケンジー将軍が、「何も知らない」と断言することは、強制収容所の存在の否定を示唆したもの、と受け取られても仕方がなかった。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p267

マッケンジー将軍の正直な発言が「強制収容所はでっちあげ」を暴く可能性が出てきた

●マッケンジー将軍の正直な発言が「強制収容所はでっちあげ」を暴く可能性が出てきた

さらに、ハーフはこのころ「ボスニアファクス通信」を使って、ボスニア政府作成の「強制収容所リスト」を懸命にワシントンに広めていた。
リストには、まさにマッケンジー将軍が司令部をおいていたサラエボ空港の滑走路脇、という場所もあげられていた。
マッケンジー将軍が何も知らない、ということはこのリストの信用性を大いに損なった。パニッチ首相らセルビア人側の、「強制収容所」はでっちあげだ、というPRに格好の材料を提供しかねなかった。


マッケンジー将軍は、ニューヨークに二日半滞在し、その間にアメリカの主要メディアに次々と出演した。国連での会見の翌日には、CNNの『ラリー・キング・ライブ』、
夜にはABCの『ナイトライン』、その翌朝にはCBSの『ディス・モーニング』。
いずれもアメリカのテレビを代表する報道番組で、ハーフがこれまで苦労を重ねてシライジッチを出演させようと図ってきた番組ばかりだ。すべてライブの番組で、これまでサラエボにいたマッケンジー将軍の発言が数秒間のサウンドバイトで断片的に伝えられてきたのとは、インパクトが違っていた。
マッケンジー将軍はそれぞれの番組で数分から10分以上の長い時間を与えられ、生来の饒舌を発揮して「収容所については、何も知らない、情報がない、見ていない」と繰り返した。わずか数日という短い期間に、さまざまなメディアに露出して同じ発言を繰り返すのは、一つのアイディアを浸透させるためには最も効果的な方法である。
「強制収容所」が欧米の主要メディアのメジャーイシュー(主要な話題)となりつつある今、それに水をかけるマッケンジー将軍の存在は許しがたいものとなった。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p267〜268

ボスニア外相とPRマンの謀略

結論は、マッケンジー将軍に直接言うのではなく、将軍の母国カナダの外務大臣に抗議の書簡を書くことだった。本人ではなく、その上司に文句を言うようなものだが、この場合はリスクもあった。
当時のカナダの女性外相、パーバラ・マクドゥガルは、それまでボスニア・ヘルツェゴビナの国際社会における心強い味方だった。他国の首脳や閣僚に先駆けてセルビア人を激しく非難し、モスレム人を支持する発言を繰り返していた。

七月はじめには、セルビア人をナチスになぞらえて、
「世界はナチスの虐殺を再び目にしている。同じような恐怖を連日目撃している。人種差別主義がはびこるのをこのまま座視していてよいのか?」と発言している。

そのマクドゥガル外相への手紙が万一逆効果となって、カナダをセルビア側に押しやることになったら大きな損失だ。
マッケンジー将軍がカナダの誇る英雄的軍人になっていたことを考えると、手紙の文面は慎重に書かなければならなかった。

「私が草稿を書きます。問題があったら、直してください」
ハーフはシライジッチに言った。

マッケンジー将軍は、ニューヨークからカナダに帰り大歓迎を受けたあともこれまでと同様の発言を繰り返していた。
そのすべてを漏らさずモニターし、記録にとりながら、ハーフは慎重に手紙の文案を練り、シライジッチ外相の許可を得てからマクドゥガル外相に正式な外交文書として発送した。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p268〜270

将軍を陥れた「離間工作の手紙」

●将軍を陥れた「離間工作の手紙」

1992年8月10日付、A4判二枚のその書簡のコピーからは、ハーフの熟慮のあとが見て取れる。
まず冒頭から、
「わが国政府は大いなる侮辱をカナダ軍人マッケンジー将軍の言葉から感じています」と強い表現で始め、この書簡を送るにいたった決意を表明している。
そして、「われわれは将軍の発言が、カナダ政府の公式の外交政策を代表するものではないと信じます」
と続けている。
マッケンジー将軍の言葉は、マクドゥガル外相のこれまでのセルビア非難の発言とは大いに異なっているのだ。
これは外交政策の矛盾ではないか、という指摘である。

ここから先が、ハーフの独壇場だった。
マッケンジー将軍の世界中さまざまなメディアに対する発言の中から、とくに問題点があるものを選び出し、日付、メディア名、具体的な発言内容を列挙してその一つ一つに反論を加えていた。

まず国連本部での最初の記者会見の、
「強制収容所については何も知らない」
という発言には、
「将軍自身が司令部を置いたサラエボ空港の滑走路脇にも強制収容所があるのに、これはいったいどうしたことなのか」
と指摘し、
8月6日、『ニューズデイ』紙への、
「ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は和平会議でセルビア側と話すことを拒否している」
という発言には、
「実際には会議に出席している」
と反論している。
9日に、カナダのテレビ局CBCで、
「ボスニア・ヘルツェゴビナには二つの政府が存在している」
と言ったことに対しては、
「国民投票によって選ばれたのは現在のボスニア・ヘルツェゴビナ政府だけである」
といった具合に新聞、通信社、テレビにおける六つの個別の発言を取り上げ、逐一矛盾点や事実認識の誤りを指摘していた。

それは、世界各地の数限りないメディアでのマッケンジー発言を把握していなければできない芸当だった。
これを読んだマクドゥガル外相は、シライジッチ外相の情報収集力に驚くとともに、その説得力を認めざるを得なかっただろう。

そして最後に、
「あなたは7月9日、勇気あふれる力強い言葉でボスニア・ヘルツェゴビナを支持してくれました。ですから、わが国政府はあなたがマッケンジー将軍と意見を共有していなと信じています。あなたに感謝しているからこそ、マッケンジー将軍の言葉への懸念を伝えたいのです」
と結んだ。

マクドゥガル外相がこれまで味方になってくれていたことを忘れていない、と賛辞を伝えながら、同時にマッケンジー将軍を何とかしろ、と迫っていた。

完璧な外交文書だった。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p270〜272

PRマンの戦略の具体的な詳細

●PRマンの戦略の具体的な詳細

ハーフは、手紙がマクドゥガル外相のもとに届いたことを確認すると、すぐに内容の要旨をまとめ、
「緊急発表」と題したプレスリリースでメディアに知らせることを忘れなかった。
カナダ外相への抗議の書簡、というニュースのネタを自らつくり、話題として提供する。
そのタイミングも周到に選ばれていた。マッケンジー将軍は、翌11日、再びアメリカを訪れ、連邦議会上院の公聴会で証言することになっていた。証人席のマッケンジー将軍にプレッシャーをかけるため、またその証言の信頼性に疑問を投げかけるために、この日は最も都合がよかった。

「私たちにできるクライアントへの貢献の中で、最も重要なのは、何か悪い事態が起きたとき、即座に反論し、逆によい情報を広めることです。タイミングを逃してしまえば、同じことを言ってもまったく効果がないこともあります。マッケンジー将軍のケースでは、ベストのタイミングで対応し、すぐに味方に有利な勢いを作り出すことができました」
と、ハーフは危機管理のPR戦略において何が大切かを語る。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p272〜273

PRマンの戦略の罠にハマった議会

●PRマンの戦略の罠にハマった議会

翌日、上院で行われた公聴会では、議員たちが、同盟国カナダの将軍に対するものとは思えない詰問調の質問をぶつけた。
「あなたは、セルビアが設置した強制収容所を本当に見なかったのか」
と、同じことを複数の議員がしつこく聞いた。
「一度も見ていません」
マッケンジー将軍は、そのたびに答えた。
「収容所についての報道や訴えを読んでいたのなら、たとえば国連部隊の軍事力を使って赤十字の査察をバックアップすることは考えなかったのか?」
「はい、それはたしかにそうですが、答えはイエスですが、しかしそれをしようと思ったら全体状況を斟酌しないといけません」
マッケンジー将軍の答えは、はた目にも苦しいものになった。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p273

不自然に一気に悪化する英雄の評判

●不自然に一気に悪化する英雄の評判

地元カナダのメディアの論調も、英雄扱いから、将軍に疑いの目を向けるものになっていた。将軍は、ワシントンの公聴会から帰国するとすぐに、地元オタクの有力新聞の論説委員会議に出席し、自らの正当性を主張しなくてはならなかった。

「おかしい、タイミングがよすぎる」

上院での証言に合わせるかのように、自分を攻撃する情報が流布され、自らに対する周囲の見方が厳しくなったことで、マッケンジー将軍は、何か計画的な意思が働いている、と感じた。しかし、それが何なのか、具体的にはわからなかった。

「そのときはPR企業の存在には気がつきませんでした。そうだ、これはPR企業の仕業だと思いあたったのは、しばらく時間がたってからのことでした」
将軍は、そう振り返る。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p273〜274

PRマンに陥れられて拡散したデマと棒に振った出世

●PRマンに陥れられて拡散したデマと棒に振った出世

サラエボから英雄として帰国した当初、将軍はカナダ政府の国防相になるのではないか、と取りざたされていた。しかし、そのような話はばったりと聞かれなくなり、そのかわり、将軍に退役を迫る有形無形のプレッシャーが強まった。

「とにかく、収容所を知らないと発言したことがすべてのきっかけでした。その後は何を言っても非難されるようになりました」
マッケンジー将軍には、さまざまな中傷が寄せられた。
「妻がセルビア人だから得軍はセルビア人の味方をするのだ(実際には妻はスコットランド人)」
あるいは、
「将軍はサラエボで収容所に入れられたモスレム人の女性をレイプした」
など、いずれも根も葉もない噂だった。
しかし、将軍の評判は確実に傷つけられていった。
中にはまったく根拠がないとは言えない指摘もあった。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p274〜275

悪評のネタの情報収集と監視ネットワーク

講演依頼の「講演料の出所」

●悪評のネタの情報収集と監視ネットワーク

将軍は各地で講演活動を行った。
サラエボでの状況を話してほしい、という依頼だった。
どこで何を話したか、ハーフのもとにはそうした情報も入ってきた。

「アメリカ中にいるクロアチア人やアルバニア人の団体から、マッケンジー将軍がどこかで講演すると連絡がきました。たとえばあるときは、ボストンで講演した、とかね。
すぐに将軍の発言の細かい内容がファクスで送られてきましたよ」
そして、誰がその講演料を支払ったかが攻撃の的となった。

講演料の一部は、在米セルビア人の団体が負担していた。
「強制収容所」をスクープしたガットマン記者が、この講演料の出所を調べて記事を書いた。
「マッケンジー将軍は、多額のお金をセルビア人から受け取って講演をしている」というのが定評になった。
その額は、あるときは1万5千ドルで、
また別の指摘では2万ドル、さらには3万ドルと言って非難する者もいた。
講演料を支払った在米セルビア人の団体のひとつは、パニッチ首相が設立に関わった「セルビアネット」だったが、
マッケンジー将軍と接触するとき、正式名を出さずに表向きはセルビア色のない政治団体、という形をとっていた。

そのために、
「私は”セルピアネット”なんて聞いたこともありませんよ」
とマッケンジー将軍は述べている。

結局、将軍は、定年まで数年を残して軍を去ることを余儀なくされた。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p275〜276

「まともな考えの人」が次々と排除されていく国際政治

言語道断の戦術

●「まともな考えの人」が次々と排除されていく国際政治
言語道断の戦術

一人は、ロンドン会議を国連とともに共同開催しているECの和平特使キャリントン卿である。キャリントン卿は開催国イギリスの元外相であり、会議の主役の一人になるはずだった。それが、会議開催前日に辞任してしまった。
「これ以上この仕事を続けていれば、自分の時間がまったくなくなってしまう。もう読けられない」
というのが、公式の理由だ。

しかし、この言葉だけで、ロンドン会議の前日に辞任する、という劇的なタイミングを説明するには不十分だった。

キャリントン卿は、モスレム人側(ボスニア)にもセルビア人側にも、同等に責任が考えの持ち主だった。
おたがいの勢力が自分の側に属する人々をわざと砲撃しそれを「敵の攻撃」だと言って「われわれはこんなにも被害をうけている」とアピールする、という「言語道断の戦術をとっている」と考えていた。

キャリントン卿がそういう考えにいたったのには個人的な体験も関係していた。

あるとき、サラエボのイゼトベゴビッチ大統領(ボスニア)のオフィスを訪問すると、ちょうどその建物が砲撃された。
そのとき、イゼトベゴビッチ大統領は敵対するセルビア人勢力がしているはずの砲撃のタイミングを分単位で正確に知っていた、と言うのだ。

「これはとても怪しいと思った。ボスニア・ヘルツェゴビナ政府の首脳は自分たちが同情を買うためにはどんなことでもする決意を固めているのだ、と私は判断した」

そして、
「セルビア人だけがいつもいちばん悪いと言われていた。それは彼らがいちばん目立ったからなんだよ。たしかにセルビア人も非情な連中だった。しかし、好むと好まざるとにかかわらず、結局は私たちもセルビア人とともに生きてゆかねばならんのだ。ひとつの国に”悪”のレッテルを貼ってしまうことは、間違いなんだ」
と述べている。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p293〜295

「まともな平和的考えの人を攻撃対象」にして「怪文書」をバラ撒き、排除していくPRマン

●「まともな平和的考えの人を攻撃対象」にして「怪文書」をバラ撒き、排除していくPRマン

ハーフは、こうしたキャリントン卿の考えを知っており、攻撃の対象にしていた。

すでに七月の「ボスニアファクス通信」で、「キャリントン卿は、自らがまとめた停戦合意に39回も失敗したあげく、被害者(モスレム人)と侵略者(セルビア人)を区別せずに扱って両方を非難し、自分の失敗の責任を押し付けた」
と非難している。

このような文書をばらまかれ、お前はセルビア人の味方をするのか、とメディアからの攻撃にさらされることは、
功なり名を遂げ、上流階級に属するキャリントン卿にとって耐え難いことだっただろう。

すべてを投げ出す決心をしたキャリントン卿のロンドン会議前日の辞任には、せめてもの抗議の意思が込められていた。


ハーフにとって、これは一つの勝利である。親セルビアの傾向を持つ人物を、和平特使の要職から排除したのだ。だがそれでも、キャリントン卿に対する追い討ちの言葉に情けはなかった。

キャリントン卿の辞任を速報する「ボスニアファクス通信」で、
「キャリントン卿は、セルビア人が常に破ってきた停戦協定のアレンジを何度もしたが、結局和平をもたらすことはできなかった。その行動にこれまでも非題の声があがっていた人物である」
と解説した。

キャリントン卿の後任に指名されたのは、やはり元イギリス外相のオーエン卿である。セルビア人勢力に対する空爆の必要性を訴えるなど、セルビアに厳しい発言で知られる人物だった。

高木徹「戦争広告代理店」第12章p295〜296


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