花守志紀「雨宿りのパッドフット」

花守志紀「パッドフットは海のなか」(「玩具の棺Vol.7 Seaside Party」収録、2024年9月発行)の、番外編「雨宿りのパッドフット」を公開します!

これは、衛藤の〈バーゲスト〉機関本部時代の物語――

雨の日の喫茶店で起こった、500円玉にまつわる〈日常の謎〉です。「パッドフットは海のなか」未読の方も是非お読みください。

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 篠突く雨の音が建物を包んでいた。
 ダイビングショップ〈パッドフット〉の店内を、煌々とした電灯の明かりが満たす。
 ガラス窓の向こうは雨に煙る海岸通り。そのさらに奥に、重たい灰色の海原が広がっている。桟橋に係留された店のクルーザー〈バスカヴィル二世〉号の影がいかにも寂しげだ。
「……あァ、退屈。こう外にも出られないんじゃ、つまんない」
 テーブルの斜め前の席で月條亜貴がぼやいた。
 開いた文庫本のページに半眼を落とし、脱色気味のロングヘアには心なし傷みが目立つ。黒いタンクトップの下に水着がのぞいているのが、終日雨の予報だというのに諦めが悪いというかなんというか。
「雨の日って嫌い、わたし。海を見てもなんか悲しげな顔してる気がするし。ねェ、衛藤」
 名前を呼ばれて、おれは再びスマホから顔を上げた。
「そうか? おれは雨の日も案外悪くないと思うぞ。屋内で落ち着いた気分で過ごせて、心の洗濯をしてるみたい、つうかな」
「衛藤ってそういうとこ陰キャだからなァ」
「せめてインドアって言え」
 店の奥のカウンターでは、店長の植坂美波子がずっと真面目な顔で書き物をしている。
 室内にゆったりと漂うエアコンの冷気が、半袖からのぞく肌に心地よい。普段とは異なるのんびりした時間が流れているようで、こういう雰囲気がおれは割と好きだった。
 ――雨、か……。
 ふと浮かんできた感情に、おれは遠いまなざしを窓の外の景色へ向けた。
「……衛藤、なんか黄昏れてる。似合わないの」
 月條が目ざとく冷やかしの表情を向けてくる。
「うっせ。ちょっと昔のこと思い出してただけだ。あれも雨の日のことだったな、って」
「昔って、もしかして衛藤が〈バーゲスト〉機関の本部にいたころの話?」
「ああ。あの五百円玉って結局、なんの意味があったんだろうな……」
 思わせぶりな言い方に興味が湧いたようで、月條は文庫本を閉じて身を乗り出してきた。
「五百円玉ってなんのこと?」
「理由が分からなくて、いまでも気になってることがあるんだ。いわゆる、日常の謎、ってやつかな。月條、よかったら考えてみるか?」
「うん、教えて。ちょうどいい退屈しのぎになるよ」
 表情にやや明るさを取り戻す彼女に応えて、おれは話し始める。
 本部にいたころのことを話題に出すなど、普段のおれなら考えられなかった。これもまた、雨の日ならではの効能かもしれない。

 叩きつける雨粒から逃れて扉に飛び込んだおれを、軽やかなカウベルの音が出迎えた。
 小ぢんまりとささやかな喫茶店である。
 店内左手にテーブル席が3つ、それと右手にカウンター席が5つばかり並ぶだけ。木の質感を活かした内装が暖色の照明に浮かび上がり、なかなか居心地はよさそうだ。
「いらっしゃいませ……あらあら、ずいぶん降られたわね」
 店主と思しき女性がカウンターを回り込んで歩み寄ってきた。
 年のころは20代半ば。茶髪をきれいなボブカットにしており、ふんわりと穏やかそうな顔つきだ。クリーム色のセーターとデニムパンツの上に紺のエプロンをつけている。
「どうぞ、お使いください」
 女性が差し出してきたタオルをお礼の言葉もそこそこに受け取り、ぐっしょりと重たい髪を勢いよく拭く。着ていたジャケットの肩と袖をぬぐい、最後に手と顔の水滴も拭き去ると少しだけ人心地がついた。
「ありがとう、助かりました」
「どういたしまして。これはもうしばらく降るわね。お好きな席にどうぞ」
 彼女にタオルを返し、カウンターの真ん中のストゥールに腰を下ろす。ホットコーヒーを注文してお冷やを喉に流し込んだ途端、どっと両肩に疲労の重りがのしかかってきた。
「災難だったわね。それにけっこう疲れも溜まってなさるみたい」
 カウンターの内側でドリップの準備をしながら、店主の女性が話しかけてくる。どうやら会話好きのマスターさんらしい。
「……分かります? ここんとこ大変な仕事が重なりましてね。心身ともに割とボロボロですよ」
 嘘ではない。〈バーゲスト〉機関のいつになくハードな任務を、立て続けにこなしてきたところなのである。それどころか、このあとにもとあるテロ組織の討伐任務が控えている。ジャケットの内側には、愛用のワルサーPPKの鈍い重量感。
 もちろんそんなことなどつゆ知らぬ店主はにっこりと微笑み、
「でしたら、ぜひともウチで思うだけ雨宿りしていってください。そう、文字どおりの意味でも、人生的な意味でも」
「ええ、そうします」
 おれも彼女に微笑みを返しながら、久しぶりに胸が温かくなる思いだった。
 コーヒーの染み渡るような苦味を楽しむかたわら、店内をゆっくりと眺め回す。
 窓の外には、暗鬱な灰色に沈む町並み。その窓枠に沿って横長のテーブルが置かれ、淡いブルーのギンガムチェックのテーブルクロスの上に雑多な小物が置かれている。どうやら、雑貨の販売コーナーになっているらしい。
 海辺の景色を写したポストカード。貝殻の形のネックレスやブローチ。帆船の精巧な模型。
「――もしかして、海がお好きなんですか?」
 テーブルのほうへ立って、机上の品々を眺めながら背後のカウンターに尋ねる。マスターは少しはにかんだような声音で、
「ええ、地元が神奈川のほうにある海沿いの町で。お客さんも、海がお好きですか?」
「……どう、でしょうね」
 振り返って曖昧な笑みを浮かべる。
「自分でもよく分からないです。実はおれ、海に行った記憶が全然なくて」
「あら、そうだったの。それならまた、余裕ができたときにぜひ行ってみて。浜で泳いだり魚釣りしたり、楽しいことがいっぱいありますよ」
「ええ、そうします。もっともおれはカナヅチなんで、泳ぐのは無理ですけどね」
 カウンター席に戻り、なおもふたりでお喋りに興じているうちに、窓の外が明るくなってきた。コーヒーのカップもちょうど空になったころである。
「じゃあおれは行きます。ごちそうさまでした」
「気持ちのほうも晴れましたか?」
「ええ、おかげさまで」
 おれたちは再び微笑みを交わし合い、そろって店の入口のレジに向かう。
「ブレンドコーヒー、500円です」
 ジャケットの内側から財布を取り出し、五百円玉を店主に手渡す。財布をしまおうとしていると、ちゃりん、と澄んだ金属音がしておれは動きを止めた。
「あ、落としましたよ」
 彼女がレジカウンターの影に屈み込み、音の主を拾い上げる。
 カウンター越しに差し出されたのは、一枚の五百円玉だった。
「……や。ありがとうございます」
 おれは五百円玉を受け取り、しまいかけていた財布に入れる。
 レシートをもらい、店主に見送られて店の戸口へ。
 雨はすっかりやんだあとで、雲間から柔らかい陽射しがのぞいている。路上の水たまりが新品の鏡のようだ。
 改めて店主に会釈をして、おれは通りを歩き出した。
 少しして振り返れば、彼女はまだ戸口に立ってこちらを見つめている。
 まるでなにかを祈っているような厳かな表情が、強く印象に残った。

「……なるほど。衛藤はそのころから惚れっぽかった、ってことだね」
 おれが話を締めくくるや、月條はにやにや笑いを浮かべてうなずいた。
「なんでそうなる。あのときおれは確か19だったから、ちょっと年が離れすぎだ」
「そうかな、わたしは全然アリだと思うけど。でも、その話がなんで謎なの? 衛藤が財布から落とした五百円玉を、その女のマスターさんが拾ってくれたってだけじゃない」
「ああ、おれもその場ではそう思ったんだけどな。あとで例の五百円玉を使う機会があって財布から出したときに気づいたんだ。その五百円玉には特徴的な汚れがついていて、あの人の店でおれが払った五百円玉にも同じ汚れがあったんだ」
「それは……えっと、つまりどういうこと?」
「つまり、店主さんが『落としましたよ』と言って衛藤くんに渡してきたのは、その直前に衛藤くんがコーヒーの代金として払った五百円玉だった。店主さんはそれを自分で床に落としたあと、あたかも衛藤くんが落としたように装って返した、そういうことでしょ」
 テーブルのかたわらに立つ植坂店長が言った。彼女もおれの話の途中で興味を引かれて、カウンターのなかから出てきたのである。
「そう、そのとおりです」
「確かに謎ね。結果として、店主さんは衛藤くんからコーヒーの代金を受け取らなかったということになる。要するにお代は結構、というわけね。その理由も分からないし、衛藤くんの落とし物を装って返した意図も分からない」
 店長は腕を組んで真剣なまなざしを浮かべる。
 ようやくクイズの趣旨が理解できたと見えて、月條も思案顔をテーブルの上に落としている。ここから彼女たちがどんな解答を導き出すか、さてさてお手並み拝見だ。
 そう思った矢先、月條が顔を上げておれを見つめた。
「ねえ、衛藤がレジのところで落ちる音を聞いたのって、ほんとに五百円玉だったの?」
「え……?」
 予想外の問いかけにおれは戸惑った。
「……言われてみれば、おれは実際に五百円玉が床に落ちたところは見てないが」
「だったら、衛藤はそのとき本当に落とし物をしたのかもしれないよ。店主さんはとっさにそれを拾ったけど、ある理由から返すことはできないって考えて、ちょうど手にしてたコーヒーのお金を代わりに渡したんだ」
「…………」
 それはいままで考慮したことのない発想だった。しかし問題は、その真の落とし物に我ながら見当がつかないことだ。
 悩むおれを可笑しそうに見やって月條は言った。
「ねえ、衛藤。ちょっとこの音聞いてみて」
 ちゃりん、と澄んだ金属音がした。
 はっとおれは目を見開く。
 あのときと、まったく同じ音。喫茶店内を照らす暖色の明かりが脳裏をよぎり、降りしきる雨の淡いにおいすら鼻先をかすめる。
 おれは慌てて席を立つとテーブルを回り込み、月條が足もとに落とした品を拾い上げた。
「これは……」
 指先で光る1個の弾丸に、おれはすべてが腑に落ちたのを感じた。
 あの日おれは、ジャケットの財布と同じポケットにばらの弾丸を入れていた。どういう理由からだったかはいまとなっては思い出せないが、折り重なったハードな任務に疲弊していた当時のおれなら、うっかりということもありえなくはない。
 にわか雨を逃れて店に入ってきた青年――彼の落とし物を拾って、それがなんと銃の弾だったことに気づいたときの、女性店主の驚愕は察するに余りある。
「おれが落とした弾を拾った彼女は、そのことを知られると自分の身も危なくなると瞬時に判断したんだな。それで、小銭を拾ってあげたことにしてごまかしたわけか」
 まさかおれのことを警察官とみなしたとも考えにくい。きっとひどく怖い思いをさせただろうと内心で反省していると、
「あるいは、なんとなく察したのかもしれないね、衛藤が背負ってるいろいろなこと。そのうえで、自分は黙って送り出してやるだけにしようって決めたんだ」
 ぽつりとこぼされた月條の言葉に、再びおれははっとなった。
 店の戸口にたたずみ、立ち去るおれの姿を見つめていた彼女の祈るような表情。あれは、物騒な気配のする男がこのまま何事もなく自分の前からいなくなってくれるようにと――いや、それならいつまでもあんな場所に立ち続けてはいまい。
 カウンター席に座るおれの疲労に満ちた顔つきを、それとももしかしたら、濡れねずみとなって店に転がり込んできたおれの姿を見たときから、彼女にはなにか感じるものがあったのかもしれない。
 おれは自分の正面、窓の外に浮かぶ雨の日の海の景色を眺める。
 結局、あのあとも〈バーゲスト〉機関本部の激務のなかで海に足を運ぶ余裕などほとんど訪れなかった。
 いま、思いもかけない運命のいたずらによって、日々潮の香りを存分に嗅ぐ生活をおれが送っていることを知れば、彼女はどんな顔を見せてくれるだろう。
 ――雨が上がったら、ちょっとビーチを散歩でもしてみるか。
 ごく自然に、おれはそう思った。
 屋根を叩く雨音が、優しげな旋律を奏でている。


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