[ひとりごと]小僧の治癒神 二
もう一度、中村天風の話を読み返したくなってネットで検索したら、別の人の体験談が出てきた。やはり、医者から治らないと宣告された人の奇跡譚だった。
その人が頼ったのは国内の禅寺だ。難病の人たちの間では知られているようで、その人も知人に教えられた。ただし、最初はとりあわなかった。いよいよ、ダメだという状態になってすがるような思いでそこを頼った。
そこから先は天風のインドでの体験とよく似ている。やはり、作務に従事することになった。入院してもおかしくない身体なのだが、作業に明け暮れることになった。
その人だけではない。見るからにひどい状態の人が同じように働いていた。人によっては歩くだけで精一杯、作業の場所に辿り着けるのかというほどの人もいたが、当人曰く、出来るだけのことをやりたいとのことだった。
それは一歩一歩歩き続けることで、作業場まで辿り着けるだろうかとか、辿り着いたとしてもろくに作業も出来ないだろうとか、再び戻ってくることが出来るのだろうかとか、そんな心配をしても仕方がないと。
そこでは重い病気を持っていることは普通のことだった。ただ、世間とは違って、今を生きることに集中しようとする人の姿と声があった。
その人は、幸い今も生きている。今出来ることを精一杯やろうとしたら、その今が三十年続いているのだという。
こういうと、単に気持ちの持ち方かと思われるかも知れないが、本当に気持ちの持ち方が変われば世界が変わってくるのだそうだ。いままでなかったような出来事が起こり、出会いがあり、夢にも思わなかった人生を生きることになるらしい。
その人は「志」という云い方をされていた。自分の個人的な欲望や願望のことを「志」とは云わないので、願望から私欲が脱けるようになるのだろうか。それも一種の利己心だという人もいるかも知れないが、自己満足と誰かに喜んでもらえたときの嬉しさは、実感が違う。
といって、パニック状態になって、誰かに喜んでもらおうとするとそれはそれでひどいことになる。それはオレの経験だ。
作務というのは、その点、ちょうどいいのかもしれない。目の前の作業に集中し、心が落ち着いてくれば自然に「志」が自覚されてくるのだろう。そのときは寺を出ればいい。
※標準医療の否定ではありません。今回の人は、そのようなことは一言も云っておられませんでした。
それと、その寺を頼った人が皆、助かったとか、それもあり得ない話。
おそらくその寺の教えは、死ぬまで生ききる、ということだと思われます。それが数ヶ月なのか、それ以上なのかは誰にも分からない。というかそれを知りたければ医者が教えてくれる。
自分が知りたいのは余命じゃなく今をどう生きるかだと。そこに気づいた人が寺の門を叩く……。