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[暮らしっ句]しゃぼん玉[鑑賞]


キミは、「乳房」の謎が解けるか?

 浮くほどの乳房持たずしゃぼん玉 今城知子

 ヨガ教室の雑談で「胸が小さく良かったことなんか一度もなかった」とおっしゃってた奥様がおられました。昼間のカルチャー教室。女性ばかり。そんな会話が交わされてるとは、ちょっとしたカルチャーショック…… 
 なんて冗談はさておいて、今回は男性には難解な「乳房」句の解明。
 

「浮くほどの乳房」というのは、どういう意味?

「しゃぼん玉」のような球形をイメージすると、相当大きいと思いますが、大きいと重いはず。しかし、小さければ「しゃぼん玉」の形からはかけ離れていく。さて、この矛盾をどう解くか?

 思いついたのは、風呂に入れば浮くのではないか? ということ。主成分が脂肪と水なら、理論的には浮きそうです。
 そう仮定すると、なんとなくこの句の意味が見えてきました。

 冒頭のヨガ教室の話を思い出すと、女性には立派な「乳房」願望がありそうです。それを重ねるとこんな声が聞こえてきませんか?

「わたしの乳房、もう少し大きくなればいいなと思っていたけど、
もうダメみたい……」

 乳房が何歳くらいまで成長するのか知りませんが、頂点に達すればそこから先は縮小に転じるはず。「盛者必衰の理」ですね。
 この句に詠まれているのは「乳房」が下降線を辿りはじめたことに気づいた時の心の揺れではないか?

 他人から見れば、わかりませんよ。でも本人は気づいてしまった。

もうワタシは生涯「浮くほどの乳房」を持つことがないのね……

 まあ、日本人であれば、大多数の人がそうだと思いますが、作者はわりといい線を行ってたのでしょうか。一度は期待した時期もあった。しかし、かなわなかった……。

 この悲哀は「老い」とは違います。同じ下り坂でも「老い」は下り坂の下のほう。このケースはほんの入り口。位置的には絶頂に近い。でも、ベクトルは同じ。作者は、もう二度と上向くことのない下り坂を意識してしまったのでしょう。

 それを「しゃぼん玉」で表現する当たりが絶妙。「しゃぼん玉」のはかなさは「浮くほど」のものですから。それは薬玉ではないわけで、壊れて消えるのは哀れに違いないのですが、その程度はとても軽い。まさに微妙に下りはじめた「乳房」にピッタリ。

 考え過ぎ?

 男性だとそう思う人が多そうですが、ひとつエピソードを紹介しておきます。若い頃の高齢者デイサービスでのひとコマです。
 その頃は同性介護の原則もなく、わたしも女性の入浴介助に当たっていました。そのとき、少し離れてところで利用者の一人が胸の立派な若い女性職員にこう話しかけていたのです。

「わたしも若い頃は、けっこういいおっぱいだったのよ。今は、吊し柿になっちゃったけど」

 細かい描写は差し控えますが、九十二歳のおばあさん。その年齢でも、なお「乳房」へのこだわりがあった!

 少し補足しておくと、戦後生まれの人であれば、ご自分の母親を思い浮かべて、昔の人はそんな浮ついたことは考えていなかったと思われるかも知れません。しかしその方は明治の三十年くらいの生まれで、娘時分が大正時代なんですよね。大正時代は一部において文化が相当爛熟していたようです。青春時代を戦争に奪われた世代とはかなり違う。むしろ、バブル期に近いものがあったかも知れません。

「浮くほどの乳房持たず」の時期と「吊し柿」の間には、かなりの時間差はありますが、さっきも云ったように、それは下り坂の上と下の違い。ある意味、感覚は同じ。
 しかも、坂の下のほうが悲しみ深いとは限りません。「吊し柿」トークをされてたおばあさんだって笑い話として語っておられましたしね。この句のほうが、ずっとシリアス。

 そう思うと、さっきは「しゃぼん玉」を軽い悲しみと云いましたが、案外、深刻な問題が隠れているのかもしれない。
 たとえば、「まだ」というあたり。
「まだ」変化は小さいとか。
「まだ」対策ができる。バストアップの運動とか下着を工夫するとかですね。

 でも、それをチャンスと受け止める人もいれば、負担に感じる人もいる。
 やれば出来るというのは裏を返せば、やらなければチャンスをドブに捨てるということ。もったいない。そのもったいないがプレッシャーになることもある。

 平成時代の若者について、ある社会学者が「自由が重荷になっている者が多い」と評していました。実際、海外に飛び出したり、辺境に出かけていって自分の道を探すということが流行らなくなりました。その反対に早くから就活に勤しむケースがフツーになった。まさに「自由」を自ら返上する生き方。「自由」というのは、さほどに好みが分かれる。

 最近、かなりキナ臭い世の中になってきましたが、戦争を待望しているかのような人がいます。武器商人とかじゃなく、「命を賭けてお国のため、愛する人のために戦わねばならない」というシチュエーションを待ち望んでいるかのよう。
 わたしのささやかな経験でも、めちゃめちゃ厳しい部活で輝いてた者が、進学した先でサークルに入って崩れてしまったという事がありました。好きにやれば良いとなった時に、どうしていいのかわからなくなってグレた。そいつは部活に入る前は典型的なジャイアンでしたから、厳しい部活の時代だけが好少年だった。戦争映画の特攻隊員の描写は、それはそれでリアリティがある。
 でも、燃えて生きるために戦争が必要というのは許されないし、また戦争
は、やりたい者だけでやればいいというものでもありません。戦争を欲する感覚も、他人事だと思う感覚もどっちも危険。

 なんでこんな話になったのか。
 大東亜戦争の時にも、志願して兵隊になった人たちが相当いた。しかし、その中には、召集されるまでの時間に耐えかねて志願したケースも相当あったと思います。召集令状が来るまでの時間を有意義に活用しようする人ばかりではないんです。そういう人の方が少数派かも。

 この句と関係のない話になったようですが、ここまで話してきて、ようやくこの句に心ひかれた理由が見えてきました。

(兵隊になることを)

拒否るほどの意志も持たず しゃぼん玉

 こう云い換えれば、徴兵を待てずに志願していく者の句になりませんか?

 なんでこの句が気になったのか、わからないまま書き進めてきましたが、今の時代にかなりリンクしているとも読める。「普遍性」ですね。

青春をついぞ持たず シャボン玉

 そんな句が詠まれないことを祈ります。
 まだ間に合うんです。まだ憲法改正も決まっていませんから、今なら戦争を回避できる余地がある。
 でもね、可能性がある時期を生きるほうが苦しい
 戦争が決まってくれたほうがラクな気がしてくる。
 倒錯です。まったくの錯覚なんですが、実はありがちな心理。
 なんとか踏みとどまって欲しい。

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