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私のダンナが辞めるまで(25)

波紋

夫の退職は、瞬く間に全社に広まった。
私の席には入れ替わり立ち替わり、噂を聞いた社員が来て、スキャンダルを起こした芸能人のようだった。
「すごいよねー。私なら、自分が辞めるなぁ。」
「よくやるよな。ダンナ追い出すなんて。」
皆が決まって同じようなことを言うので、私も皆に笑顔で「そうですか。」の一言だけしか返さなかった。事情を知らない人の意見など、正直どうでも良かった。

ある日トイレで手を洗っていた時、視線を感じ横を向くと、ひとりの女子社員が私を睨んでいた。
水でもかかったかと思い、私は聞いた。
-どうしました?

「貴女最低ね。○○くん(夫)いい人なのに追い出すなんて!信じられない!」

(あぁ、夫のこと好きなんだな…)

うるせぇ!と殴りかかりたい衝動を必死で抑えて、私は笑顔で彼女に詰め寄り、握手を求めた。

-はじめまして!私、貴女のお名前知らないから、教えて頂けます?夫に貴女が辞めないでほしいって言ってくれてたこと、伝えますから。
夫、喜ぶと思います。

私がそう言うと、女子社員は顔を真っ赤にして走り去った。

しばらくして噂も落ち着いた頃、夫との待ち合わせ場所で待っていると、携帯で話しながら夫が現れた。
「母さんが話したいって。」
そう言って携帯を差し出す夫。嫌な予感しかしない。

-もしもし。お母さん、こんばんは。

「息子から聞きました。貴女本当にそれでいいの?」
夫が今日まで退職のことを話していなかったのだと、すぐに分かった。

-お母さん。ご心配をお掛けして、本当にごめんなさい。でも、私たち何度も何度も話し合って、決めたんです。
それにね、現場で働いてた時の、息子さんの写真見たことあるんですけど、今よりすっごく生き生きしてて、現場の仕事が本当に好きなんだなって思ったんです!
スカウトされるなんて、期待されてる証拠ですよね!すごいです!

「そうね。やりたい仕事が一番よね!支えてあげてね。ありがとう。」

お母さんは納得してくれた。
嬉しい反面、少し胸が痛んだ。
私はひとつ嘘をついていた。本当は、夫が現場で働く姿も写真も見たことがなかった。
嘘はいけない。分かっている。だが、退職が決まった今、お母さんに気持ちよく夫の背中を押して欲しかった。

もう嘘はつかない。夫を隣で支えていこう。
私は決心を固めた。

つづく…



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