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ガブリエル・夏 20 「逃げられない」

ガタンゴトーン ダダンドドーン
ガタンゴトーン ダダンドドーン

電車の音と揺れというものは、脳の、自分ではコントロールのきかないところへ働きかけて、人の心にそっと染み込んで、軽くする。そういう効果があるんじゃないかと思う。移動というのがいいのかな。日常から、自分から、離れていけるみたいな感覚が。誰かが落ち込んで、落ちて落ちて瀕死の状態が続いていたら、田舎の電車に乗せてあげるといい。元気になるかも。

ブンダハイム駅の、昔風で質素な建物の雰囲気とは対照的に、電車は、外側は赤がメインで銀と緑が入った、メタリックで強そうな感じで、中は鮮やかな青がベースでモダン。シートはきれいで、綻びもシミもない。スプリングの不均衡もない。新しそう。何より居心地がいいのは、空いてるからだ。おじいさんとおばあさんも、扉から近いいい席に、すんなり座れた。町の景色は一瞬で終わって、右にも左にも、広い畑が広がる。四角くまとめた干し草を、積み木みたいに縦に積んである。この辺は多分、柚と研のチャリンコ通学路になるところだ。この畑と、奥の低い山々と、大きな空と、重たそうに電線を担いでる鉄塔の続く風景を、毎日見るんだな。いいだろう。季節と地球を毎日感じたらいいだろう。

「まみもちゃん!」

見えてるもの全てが、ズームアップした人の顔の部分に変わった。……鼻、……目、……眉毛、モジャモジャの髪、……レイ。
「はい!」

「お得なチケット買いますよ。早くしないとダメでしょう?!」

「そうそう、そうそう。ですよねー。 では。お待たせしました。ちゃっちゃらー! 隠し口座のクレジットカードー! ガブくん、これを使ってみて。」

まみもが秘密道具風に高く掲げたカード情報を、レイがイライラしながら入力し、無事に、お買い得チケットを購入できた。無銭乗車で捕まる心配はなくなった。レイが、まみものドラえもん劇場を楽しんでいる様子もなかった。ハイタッチを、と出した手は、上から握られ、グーがパーにやられている格好になった。やられているグーをチョキにしようとするが、レイのパーの力が強いので、人差し指と中指を伸ばせない。右手がチョキで応援に駆けつける。パーは強くてなかなか切れない。そこへレイのもう一つのパーが来て、まみものグーとチョキは完全にやられた。このままではグーとチョキは、パーから出る謎の液体で溶かされてしまう。グーとチョキの頭上が急に暗くなったと思ったら怪物の顔が来て、パーもろともフガフガ食べた。

「まみもちゃん、カード使うなら、さっきのお金いらなかったじゃん。」
普通の人間に戻って、レイが言った。

「ん〜。そうかもしれない、けど、現金が便利な時もあるのだよ君、現金離れの進んだ若者よ。それに今の、ただのカードじゃないんだよ。その存在を知るものは、あなたと私の他にはいない。 私が普段使ってるこのカードと、これとこれはね、使ったらすぐ柚のパパのところへ通知がいくの。どこで、何時にいくら出しました、いくら使いましたって。あと、こっちのこのアプリね、いつもどこにいるか、家族で見られるようになってるの。使ってるのはもちろん柚のパパだけだよ。1週間前まで、遡って見ることもできる。今切っちゃえ。えい。 ほんでそれがどういうことかと言うとね、昨日2時ごろ、なんでアウトホールンに行ってたの?とか、今日の11時過ぎには誰といたの?アムステルダム ウエストのカフェで、とか、そういう質問をされるってこと。3日前にリドルで55€使ってたね、何買ったの?って。あのアプリ、ロケーションが出なくなってるよ。携帯貸して、設定直しとくからって。ほんで携帯のパスワードもおっさん知ってるわけ!自分で設定してるから。ほんでそのパスワードは、なんか知らないけど、私がいくらやっても自分では変えられないの。
つまり、把握されてるのですよ、全部。
私45歳で、5歳じゃないし、もう中年も中盤だし、どちらかと言うと鳥みたいに、風みたいに、自由にしてたい方なのにね、なのにこんなに管理されて、古い動物園の、小さな檻の気の毒なライオンみたいよ。頭おかしくなりそう。」

「あ〜。お金だと、情報が送られないんだね。」

「うん、でも引き出したことについてはなんか言われる。なんでそれが必要だったの?何のため?何に使ってるの?って。私が余計なことしてないかどうかを確認したいのに加えて、自分のお金だから気になるのかもしれないけど。でもそんなこと言ったら、私の洗濯とか料理とかの給料ずっと未払いだし。私のレート、結構高いのに。なんていうか、今は何にもできないから、働きに行っても最低賃金だって稼げるかどうかわかんないけど、昔派遣だった時はその辺の子より時給250円高かったし、潜在能力とか、フレキシブルとか、クリエイティブとか、オープンマインドとか、今の時代にいるやつ、私色々持ってると思うんだけど……。なんの話だっけ。あ、そうか。ほんでね、この間日本に帰った時に、隠し銀行口座とクレジットカードを作ったの。私ユーロは全然持ってないし、自分の口座もこっちでは持てないから。でも日本のカードって、なんか知らないけど使えないところもあるじゃん。そしたらお金いるじゃん。」
言いながら、段々と自分の状況をとても情けなく惨めに感じ始めて、5歳じゃない、中年だと言ってるわりに、子供っぽく涙声に近づいてくる。

「わかった。わかったよ。ちょっとわかんないところもあったけど、大体わかったよ。大人は色々あるね。大変なんだね、まみもちゃん。」

レイがまみもの右手をとる。左手もとった。自分の両手で持って、頬に持って行く。レイの小さい顔はまみもの手でほとんど覆われてしまう。柔らかい。まみもの手を、レイの手が上から押して、レイの顔のパーツが真ん中に寄る。アンパンマンみたいなほっぺのおもしろい顔になる。次に両手が頬を外側へ引っ張って、レイの顔はビヨーンと横に伸びる。上へ下へ、グルグル回して、変な顔のショーが続いて、終わった。レイはまみもの両手を合掌の形にくっつけて、自分の太腿の間に挟んだ。ぐっと両側から押してくる。抜けない。

「僕だったらこうする。まみもちゃんに、逃げられたくない時。あ、待って。」
太腿を開けて、まみもの手を取り、お尻の下に敷いた。
「こっちの方がいいかな。」

笑っていたまみもが、両手をお尻の下に敷かれたまま言う。
「全然悪い人じゃないんだよ。」
「ん?」
「柚のパパ。人間が悪いわけでは全然ないの。色々してくれるんだけど。私が誰かということには、興味がないんだなぁ、多分。」
「一番いいところなのに!」
「んふふ。優しいね。」
「あ、マーガレットさんもそうだよ。ポルトガルに一緒に行く人。僕に気に入られたいだけなの。その方がお母さんが機嫌よくなるから。まみもちゃんは、僕を好きでにこにこしてるけど、マーガレットさんは反対。僕に好きになって欲しいからにこにこする。本当は全然僕に興味はなくて、適当なことばっかり言うよ。」
「そっか。マーガレットさんて、イギリス人?」
「当たり!なんでわかった?」
「勘。ガブくん、マーガレットさんはいいよ。マーガレットさんを好きにならなくていい。polite enough, nice enough  にしとくだけで充分だよ。鬱陶しいかもしれないけど、その人、お母さんをハッピーにしてくれるんだから、いいじゃん。許して。その人も多分、悩みながら生きてる、がんばってる人だよ。」

まみもは手を動かせないので、両脚でレイの脚をロックした。
「私はこうしようかな。ガブくんに逃げられたくないとき。」


「まみもちゃん、楽しいね。」
「うん。楽しいね。でも逃げられないね。」



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