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『樺太』を生きたこどもたち ~令和の證言~
ーはじめにー
私が樺太の歴史、文化に興味を持ったのは社会人になったばかりの頃のことでした。
社会人になったばかりですから、当然右も左も判らずただ目の前の仕事を只管こなすだけの毎日でした。
日中はせはしなく会社で業務をこなし、夜になって帰宅し一息ついてご飯を食べながらパソコンの電源を点けひとりネットサーフィンをするのが、仕事で疲れた心と身体をリラックスさせることができる時間でした。
私は歴史や旅行、自動車が趣味なので頭に思ひついたそれらに関係するワードを氣まゝに打ち込み検索してゐました。
或日、「さういへば樺太は戦前日本の領土だったけど、一体どんなところだったんだ?」とふと思ひたち検索してみました。
それまで樺太に対する自分の想像では、只々一面森林が廣がる原野で、数百人か数千人か、とにかく少数の日本人が各々木を切りつつ現代でいふアウトドアのやうな感じで過ごしてゐたのだらう、とぼんやり考へてゐただけでした。
とあるウェブサイトが表示されました。「新樺太市役所」といふ題名でした。
その中を読み進めていくと、豊原や真岡と言った大きな都市、各地には大規模な炭鉱・工場で多くの日本人が働き生活してゐたこと。海岸沿ひを貫く鉄路・・・何より驚いたのは各地に遺る地名、それはアイヌ語を語源としたものであり、まさしく自分が生まれ育った北海道そのものでした。
そして突然のソ聯侵攻で多くの島民が住む土地を追はれ、ある人は命を落としまたある人は長い抑留の日々を経て日本各地特に北海道へ引き揚げることとなりました。
自分は小学生の時、歴代天皇陛下の諡号をすべて暗記し先生に促され授業前に同級生の前で披露したり、卒業式で起立してひとり大きな声で国歌斉唱するほど(今は漸く当たり前になったか?)子供の頃から保守的な思想で過ごしてゐた自分が、樺太の真の姿を社会人になるまで全く認識して居なかったことがとにかく衝撃でした。恐らくは自分の無知を恥ぢたのではないかと思ひます。
それからといふもの、ネットで樺太関係の情報を集める日々が続き、数年前転勤先から北海道に戻り漸く経済的にも時間的にも樺太の研究に費やす余裕を得ることができたため、この度遂に当時実際に島で暮らしてゐた方々への取材を始めることにしました。
戰後79年が経過し、ご健在の方々は殆どが当時の小中学生、齢90歳前後となってゐます。
子供時代の微かな記憶の糸を手繰り證言してくださる皆様に心より感謝申し上げます。
引き続き證言集めを続けて居りますので、この記事をご覧になりました方々で取材をお受け戴けることありましたらどうぞご連絡を戴きたく存じます。
千島樺太が、いつの日か再び国土【皇土】に還ることを祈念しつつ。
追伸;
そしてもう一つ、筆者の地元の神社は樺太にあった某神社の御神体が戦後引き揚げて来て安置された場所でもあります。つい数年前までこの事実を知 らずに居り、研究を進めて行く過程でそれに就いての記事を見つけました。
樺太から引き揚げられた御神体は此処と遠軽神社、石川県穴水町内にあるもの以外把握して居りません。ほぼこの三箇所くらゐではないでせうか。
当方が通ってゐた保育園はこの神社の至近にあり、知らず知らずのうちに樺太の神々の御神託を受けてゐたのでせうか。
本当に不思議な因果を感じます。
令和6年11月18日 自室にて筆者記す。