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『樺太』を生きたこどもたち ~令和の證言~ [N.Y様、I.Y様][惠須取・大泊]その②

證言者;
N.Y様、I.Y様(姉妹)
お二人は年子の姉妹。姉のN.Yさんは大泊のご出身、妹のI.Yさんは川上炭山のご出身。聞き取りにはN.Yさんの御子息(N.Hさん)も同席された。

~先にその①をご覧ください~

ー 山火事の記憶はありますか?
I.Yさん 有ります。
ー あります?やっぱ放火ですか?
I.Yさん 原因はわからないけど、すごく迫ってきて熱く感じるくらゐになって、逃げたね、みんなで。
N.Yさん わたし、それ知らないわ。山火事の記憶なんかある?
I.Yさん 有るわよ。熱いぐらゐ感じたよ。もうね、熱風で。ボンボン燃えてたよ。みんな逃げたよ、家ごとっていふか・・・家財道具は持てないけど。
ー 町を二回焼かれてるんですよ、昭和4年と19年と。
I.Yさん あ、さう・・・ぢゃ19年だわ。
N.Yさん わたし、昭和7年(生まれ)だから。


ー お父さん、お母さんが恵須取に行ったのって何年なんですか?
N.Yさん わたし、大泊で生まれた。
I.Yさん わたしは川上炭山。
ー 川上炭鉱なんですか・・・
I.Yさん 移って歩いてたんでないかい?
N.Yさん えー?川上?
I.Yさん 確かさうやって聞いてたなぁ・・・大泊ではないよ。
ー 途中で引っ越したのかもしれない・・・
I.Yさん さうですね。
ー 川上炭鉱の情報も全然無いんですよ。

ー (火事で)家燃えて、火災保険とかどうしてたんでせうね・・・
I.Yさん 私達入ってたの、借家だもんね。(持ち家ぢゃない?)さうです。
N.Yさん 恵須取でね、空襲になって・・・樺太の家ってね、木造でせう?ここ(壁)の間におが屑入るの。あったかいの。火事があったらすぐ燃えちゃふ。

ー さうですよね。
N.Yさん うちも燃えちゃって。蓄音機と、ラヂオと・・・
I.Yさん え?家、火事で焼けたことあるの?
N.Yさん 引き揚げてくるとき、燃えちゃったんだよ。
I.Yさん 燃える姿をどうやって見るの?もう車で逃げてるのに。燃えた家をどうやって見たの?
N.Yさん その前に。
I.Yさん 私達、どこに居たの?家から出て。空襲で焼けてる家、目にするってことはどこかに居たんでせう?
N.Yさん 布禮に行ったんだよ。
I.Yさん 行く前に焼けた姿見たってこと?

ー 8月11日の未明でしたっけ?南浜町が(空襲で)燃えちゃったのは。
I.Yさん バスでいくときに、バスが燃えるんでないかと思ふぐらゐの(街の中を)走った。自分の家が燃えてる姿っていふのは見た記憶無いんだけどさ。

ー 防空壕ってすぐ海に近いぢゃないですか?ソ連兵から防空壕って見えてたんぢゃないです?
I.Yさん どうでせうね?(防空壕の場所は)競馬場に行くところの山だよね?
N.Yさん さう。
I.Yさん 入口は、勿論海の方向いてるけど。
N.Yさん 艦砲射撃当たったら、そこはもう全滅だよ。恵須取の人、いっぱい入ったから。蠟燭も点かなくなるの。
I.Yさん 酸素!
ー 空気薄くなっちゃふんですよね。

ー N.Yさんはソ連来た時中学1年生ですよね?
I.Yさん さうですさうです、女学校1年。

― 中学生って、敷香でも真岡も駆り出されてるんですよね、軍人に。
I.Yさん それは無かったよね?勤労奉仕みたいに招集されたことなんて無いよね?
N.Yさん 勤労奉仕はあったよ、女学校だから。
ー ソ連が来る前ですよね?
I.Yさん 進駐して来る前だよね。
N.Yさん さう。肥料を筵みたいなのに入れて担いだ覚え有る。さういふ動員されて、女学校だから。

ー ソ連が来た時に、監視塔の上に中学生の女の子たちが監視してたとか、男の子たちが機関銃持って海に向けて「ソ連が来たら撃ってやる!」とか中学生もやらされたって・・・さういふのは無かったんですね?
N.Yさん 有ったよ。
ー 有った!?
N.Yさん 藁の人形さんを置いててね、竹槍で。「突けー!」って。練習した、女学校で。
ー 上陸してきた時に、監視塔で監視してたとか・・・
I.Yさん 無い。
N.Yさん 無いね。

ー 「バスで避難」なんですけど、薪バスですよね?
N.Yさん 薪。
ー 薪バスで久春内まで行ったんですよね?大泊までバスで行ったんですか?
I.Yさん 途中から鉄道が走ってるけど・・・
ー 久春内ですよね?久春内でバスを降りて、鉄道で大泊まで行った、と?
I.Yさん 豊原で一旦降りたでしよ?豊原で空襲に遭ったでせう?もう戦争終ってるのに。
N.Hさん 「恵須取から内路に行った」って言はなかった?
N.Yさん 内路に行ったんだわ。
N.Hさん 違ふんでない?バスでかう(西海岸を)行ったんでないの?大泊までバスでないの?
ー 「(記事の中に)バスで南に行った」と書いてあったんで、自分は西海岸を行ったと思ってましたけど・・・
I.Yさん 私はバスしか知らない。
N.Yさん 内路に行ったと思ふけど・・・
N.Hさん バスで南下してる時にね、海どっちにあった?西側(に海)だった?東側だった?
I.Yさん 絶対そっち(内路)側なんか行かないもん。
ー やっぱり久春内から下がったんですね・・・
N.Yさん 私は内路に行った覚え有るんだ。また(來た道を)戻ったんだらうか・・・?
N.Hさん 確かに内路に行ったら国鉄が有るのさ。乗り換へやうとしたのかもしれないけどさ。
N.Hさん 豊原から大泊までバスで行ったんでしよ?
N.Yさん 全部(道中は)バスだもん。
I.Yさん 全部バスしか覚えてない。乗り換へたことは無いと思ふ。
N.Yさん 無いよ。ここ(内恵道路)を27里のとこを(東に)かう行って・・・豊原の空襲のとこを通って、大泊に来たんだよ。真岡に行った覚えないもん。
I.Yさん 真岡には行ってないわ、豊原でものすごい空襲に遭ったんだもん。
N.Yさん 「乗せて頂戴、乗せて頂戴」って。
ー 凄く気になってたのが、薪バスで、恵須取から大泊まで本当に帰れたのかな?っていふ・・・500キロ、450キロくらゐ有るのかな?未だに車で5時間半くらゐかかるんですよ、豊原から。(その道程を)薪バスで・・・?
N.Yさん 豊原を、空襲の後に着いた。
I.Yさん ひどい空襲に遭ったしよ。みんなビルの中入って。空襲すぎるの待った筈だけど。

ー 「恵須取陸送(?)」って会社が(恵須取で)空襲あった際に、「本部を久春内に移す」って話になったらしくって、その時にN.Yさん方が一緒に移ったのかな?って思ったんですけど・・・
I.Yさん 内路で泊まった?
N.Yさん 泊まらない。
N.Hさん 内路に何しに行った?
I.Yさん (私達)炊き出しどこで受けた?
N.Hさん 国鉄に乗ろうとしたけどダメだった?恵須取は何日に出たの?(8月)15日?
I.Yさん もっと前。途中だもん、白旗見たの。バスで移動する時に。いろんなうちに全部白旗出てるの。「あ、負けたんだなぁ」って思ったけれども。
ー 家燃えたのはご存知ですからね。
I.Yさん ものすごい燃えてるところを(走った)。
N.Yさん 8月の9日に(恵須取にソ連の)偵察機来たんでなかった?
N.Hさん 10日に空襲来て、帰ってきたら家燃えてた、と?
N.Yさん さう。もう無い。
N.Hさん その後(町を)出たんだ・・・
N.Yさん 恵須取出る時、恵須取の街燃えてたよね?燃えてる最中に通ったよね?
I.Yさん さうさうさう。
N.Hさん よく聞くのは、最初偵察機来たと、そして焼夷弾点いたと、「明るいなぁ」ってニコニコ笑ってたと、子共が。次の日になったら空襲になったと。それで防空壕に居たんでしよ?帰ってきたら、もう家焼けてた、と。11か、12日にすぐ(街を)出てるんでない?

ー バスで恵須取から大泊に行ったってのが・・・
N.Hさん 大体一週間で大泊まで来てるわ。
N.Yさん 最後の船に間に合ったけど(大泊に)置かれたの。
ー 宗谷丸ですよね?確か。
N.Yさん 布禮に何日も居たよね?
I.Yさん 何日も居た。(白旗を見てるのは)布禮を過ぎてからだね。
N.Yさん 会社の飯場みたいなところがあったの。
N.Hさん 布禮に来てるんだったら、(避難経路は)やっぱり西海岸に来てるわ。
ー (道中)すごい人だった筈なんで、その中を薪バスを走らせるっていふのは相当大変だったんぢゃないかなぁ?って。「俺も載せろ、俺も載せろ」って。
I.Yさん さうです。走るのに大変なぐらゐ。(バスの車体に)触れるぐらゐの。
N.Yさん (車体を)叩いてね・・・可哀相で。「親だけでも!」ってさ。
ー 西海岸を下ってる時ぢゃないかなぁって・・・
N.Hさん 西海岸を下ってるね。
N.Yさん 友達はそこ(内路)から貨車に乗ったって言ってた。(無蓋車?)さう。
ー たぶん西海岸を下って行ったんだと思ふんですけれども、バスで大泊まで行ったってのは驚きですね。
I.Yさん 父さん別行動だったよ、不安だった。
N.Hさん お爺ちゃんの会社のバスでしよ?(さうさう)。優遇されてたんぢゃないの?
N.Yさん わたし、内路行ったと思ふんだけど・・・布禮に居る時も空襲あったんだけど。
I.Yさん 白旗見てからでも空襲来たんだもん。ひどかったよ。
N.Yさん 布禮来ても逃げるとこ無くて大変だったよ。
N.Hさん バスだから内路まで一日で行けるっちゃ行ける・・・?
I.Yさん (道中)途中でも空襲有るから一旦みんなバスから降りて、林の中に入って・・・バスの上に草とか木とか、わからない様にしては居たけど。何回も降りて。

ー カモフラージュ?
N.Hさん 歩いてないんだね?夜はバスで寝るの?
I.Yさん その都度校舎みたいな施設で(泊まって)、蒲団なんて無いんだよ。避難所に転がって寝て。めちゃくちゃ(虫に)刺されて。
N.Yさん 街々で炊き出しのご飯食べて。エンジンかける時にかうやって薪焚いてたやうな気がする。
ー 薪バスは最初(ハンドルを廻して)空気を送り込むんですよね。給油してないもん。
N.Hさん 薪の補給所はそれなりに有って。燃料の補給と、夜はここに泊まって、とかバス会社でちゃんと段取りしてたんだ。
I.Yさん 連絡取れてるやうな感じではあったかな?さういふところ(補給所)で炊き出しが出てくるのさ。

ー 恵須取から見えましたでせう?沿海州が。
I.Yさん どうだったかね?
N.Yさん 布禮は山だから、突然(ソ連の)飛行機が出てくるから恐ろしかった。

ー 布禮って農家の村ですよね?
I.Yさん 周り、農村だよね?
N.Yさん 農家の街。会社の寮みたいなのが(有った)、そこにお砂糖もあったし、米もあったし、蒲団もあったし。
N.Hさん バスに何人くらゐ乗ってたの?
I.Yさん それもわかんないけど。男の人なんて乗ってなかったんでない?子共ばっかり。
N.Yさん 父さん、おはぎ持ってきてくれたもんね。
N.Hさん 運転手と連絡取り合って。会社のなかで手配してたんだね。
N.Yさん それだからゲーペーウーに引っ張られたんでないかなぁ・・・

ー 大泊に着いた後は、もう恵須取には戻らなかったんですか?
I.Yさん 山下町っていふ、そこに行きました。一回引っ越したけどね。
ー そのあと、恵須取には戻れなかった?
I.Yさん さうですね。
N.Yさん (浜市街の)一番の繁華街、ぜんぶ燃えてた。
南浜町に郵便局とか薬局とか有ったからね。
I.Yさん 病院もあった、消防もあったし。
N.Hさん 大泊にはどれくらゐ居たの?
I.Yさん 二年は居たよ。
N.Hさん 大泊でも学校行ってたの?
I.Yさん 行ってたよ。(大泊の)女学校入る時に試験受けた。
N.Yさん 大泊の人は殆ど居ないの、引き揚げて。だから家ぜんぶ空っぽ。
N.Hさん 大泊とか真岡の人達はすぐ稚内に逃げたんでしよ?ある意味(二人は)逃げ遅れた。

ー 大泊の思ひ出はありますか?
I.Yさん ニシンを身欠きにして、乾かしたものをお爺ちゃんが肥料にして。芋植ゑた。越冬の食べ物。橇で朝早く売りに来る。肉は無いけどね。

ー お米どうしてました?
I.Yさん 父さんがロシアの仕事してたと思ふんだけど、お米運ぶ時に「ドン!」と落としてさ。
N.Yさん それでゲーペーウーに引っ張られたの。食べ物ちゃんとあったよね。
N.Hさん 東京や本州よりなんぼかいい。
N.Yさん 樺太っていふのはさ、どんどん送ってくるから。こっち(北海道)の人お菓子無くても、樺太にはいっぱいあった。
N.Hさん 樺太は食料難になってないんだわ。
N.Yさん さう。全然食べ物は不自由しなかった、お菓子も。キャラメルもいっぱいあったしね。大泊は水道だし。
ー 水道だったですか?
N.Yさん こっち(引き揚げ先)は舗装でないしどろんこ、水が悪くて、砂で濾して飲んでたんですよ。ビックリした。

ー 山下町に居たんでしたっけ?
I.Yさん 最初はね、あとは楠渓町。
N.Yさん お爺ちゃんが半農半漁だったんです。牛も飼ってたし。
I.Yさん 私達が着いたときは疎開して居なかったけどね。
ー 引き揚げの船の名前は?
I.Yさん 覚えてないね。小さい・・・
N.Yさん 貨物船。
I.Yさん (引き揚げは)22年の正月。
N.Yおさん 船のなかに10日くらゐ置かれたんだけど。
I.Yさん (置かれたのは)落ち着き先を選ぶのにね。

ー 樺太から来た人って水田を珍しく思へたって。
I.Yさん 生まれて初めて見て、もう感動した!(その話よく残ってますよ)私だけで無かった?

ー 北海道と樺太と同じ北国でも住む違ひってありますか?
I.Yさん 年齢で感じ方が違ふ。子供として生活させられてるっていふか。
N.Yさん (北海道は)あったかいよ。
I.Yさん さう、一番は「寒さ」。だってむかうはー30度!

ー さうですよね。
N.Yさん 外で(息したら鼻の穴が)ペターっとなるもん。
I.Yさん ー30度でも冬になったら必ずスキー授業があって辛かった。
N.Yさん 北海道の雪、白くてビックリした。(黒いんですか?)向かうは、黄砂が・・・

ー あーーーーーー!雪に黄砂が混ぢる!
N.Yさん 子共が雪の上歩いても埋まらない。固いの!
N.Hさん 海岸線沿ひだもんね、恵須取なんて。
I.Yさん よくあんな寒いところに・・・子共には過酷なところだね。


ー 「北海道は、あったかいところだった」っていふ・・・
N.Yさん お爺ちゃんが街の銭湯から手拭を頭に當てゝきたら、家に着くまでにカンカラカン。私達恵須取だから(大泊より)余計に寒いの。

ー ウクライナ戦争を見てどう思ひますか?
I.Yさん 終戰になったときはスターリンだったの?最初神様みたいだったけど引き揚げる頃には(スターリンの顔を)踏んでた人居たよね。(ロシア人で?)ロシア人では無かったかなぁ?戰後はじめてメーデー見て、ビックリした。「こんなにたくさん人が」って。

I.Yさん 戦後ロシア兵が進駐してきて、年頃の女の子はみんな髪を坊主まではいかないけど。頭巾被ってね。(顔黒く塗りました?)それはしなかった。
N.Yさん 男装したりしてたけどね。やっぱり判るもんね。
I.Yさん 弟と一緒に歩いてて(ロシア兵に)「敬礼しなさいよ」って言ったら、するのさ。
N.Yさん 家に将校入れたり。
I.Yさん 二階を(将校に)貸してた。紳士だったよ。
N.Yさん (山下町に在る)母の実家にまづ行ったんですよ。大泊の街からちょっと坂になってて、そしてちょっと行ったら(近くの)広っぱで(ソ連の)戦車がたくさん来てたから。そんあ悪いことしに来ないと思ってたら・・・来ましたもんね。

ー 山下町って海側の・・・
I.Yさん さうですさうです。
N.Yさん 船に乗れなくて、母の実家に落ち着いたんですよ。

ー でもそこは出ちゃった(引っ越した)?
I.Yさん 将校が来て「母を貸せ!」と。(危ないから引っ越した?)さうですさうです。楠渓町に引っ越したの。
N.Yさん その辺に誰も住んでないんだもん、(引き揚げ後で)空っぽで。「マダムダワイ」に遭ったからね、すぐ引っ越したの。(引っ越した先は親族の)おっきなうちでね。
I.Yさん 二階建てのおっきな。
N.Yさん 二階に将校を置いたりしたから。それからは安泰でした。
I.Yさん 大泊の驛の広場にね、疎開の荷物を持って行かれない分ぜんぶ中身開けてね、着物から帯から服から山のやうに・・・散らばってた。

ー ソ連兵が散らばしたんですね?
I.Yさん さうさうさう。
N.Yさん 帶とかを暖簾にしてるの。上手だよ。
I.Yさん うちの二階に居るひとたちも着物ほどいてカーテンみたいにして綺麗にしてた。
N.Yさん 向かうの人、着の身着のままで来るんだもん。

ー 靴もないんですもんね。
I.Yさん 靴もない!ひどい姿だった。
N.Yさん 私今でも覚えてるよ!バス叩いてね、「乗せてくれ」って。「この母だけでも乗せてくれ!」って叩いて・・・可哀相だなぁって気持ちが忘れないね。豊原に来たときはてうど空襲の終ったあとだったから。
I.Yさん 「撃たれるんでないか!?」って(バスの)壁に張り付いてた。空襲が来て、どっかの建物に入った気がするよ。バス、狙はれるから。
N.Hさん 空襲の日あたりに豊原に来てる?
I.Yさん さうだね。そこでものすごい空襲に遭ったの。戦争終ってるのに、と思った。
N.Yさん 終戰なんてわかんなかった。
N.Hさん 8月9日か10日に焼夷弾(照明弾)見たでしよ?11日くらゐに空襲だよね。
I.Yさん 焼けた。
N.Hさん その次の日くらゐに焼け野原から出発してるんでせう?大泊に10日くらゐかけて来たのは計算が合ふ。走ってるくらゐに終戰になる。
I.Yさん 布禮から出て逃げる途中で家に白旗が揚がってるから「あら?」って。そしてバスが止まった時に正式に連絡係みたいな人から「負けた」って聞いて。それで豊原に着いたときに空襲でバス止めたんだから。終戰になってるのに、白旗揚げてるのに、空襲するんだなぁ、と。
N.Hさん とんでもない國だ。

ー とんでもない國なんですよ。
N.Hさん 避難の船は沈めて・・・戦争犯罪だ。 ※三船殉難事件のこと。

ー 最後、恵須取に戻れることがあればまた住みますか?
I.Yさん いや、もう二度と・・・とんでもない!

ー とんでもない!?戰後行ってないですか。
I.Yさん 私は行ってないの。恵須取まで行ったの?
N.Yさん 行ったよ。面影もないし、南浜町は草叢だった。だけど第一小学校の・・・
I.Yさん 奉安殿かい?
N.Yさん 御真影?それはあった。トラックから石炭落として(道の周り)石炭だらけ。昔のまんまの道路だった。
I.Yさん 貧乏のままだ。

ー 恵須取に住む気は無いですか?
N.Yさん いや、無いよ!寒いもんねー。
I.Yさん さうさう。寒くてやだ。(やっぱ寒い?)寒いなんてもんでない。小学生のとき、帰ってきたらいっつも泣きながら帰って来て。母が洗面器にお湯を用意してそこに手をつけないと、痛くて痛くて、足も手も。毛糸の手袋。寒くて寒くて。スキー授業はあるし。厳しかった。

N.Hさん 帰れるって聞いたときは嬉しかったでしよ?
I.Yさん でも収容所に居る時も「使役」っていふのがあってね、父親はあの寒い中必ず労働。「帰って来るかな?」って心配だった。

ー 引き揚げを言はれるまで、(準備期間)殆ど時間無かったでせう?
N.Hさん 連絡来てからそれくらゐ時間あったの?
I.Yさん 母さん、リュックサック手縫ひで作ってた。
N.Yさん ロスケといっしょに生活したから、言葉ちょっと覚えたもんね。

ー 学校でロシア語の授業ありませんでした?
I.Yさん 途中で変へられた。女学校入ったら英語。途中から(英語の勉強は)ダメだって。
N.Yさん アジン、ドゥヴァー、トゥリー・・・ダスビダーニャとか。「ジラーステチ」って握手。
N.Yさん ちゃんと覚えてる。
I.Yさん 子共はマーリンケ。
N.Yさん 「マダムダワイ」って来るんだよー!

ー 長々とありがたうございました。またわからなくなったらご連絡致します。
N.Yさん 要望に答へれたかどうかはわかりませんけども。

~今回の聞き取りに就いて~
 筆者が某新聞社のN.Yさんに取材した記事を発見し、N.Yさんに連絡を取り面会のご了承をいただいて実現した。
 N.Yさん、I.Yさん姉妹は樺太のお生まれ。父が恵須取を本拠とした「丸惠惠須取自動車株式會社」に勤めてゐたため町内南浜町で暮らしてゐたがソ連参戦に伴ひ急遽町を脱出。その後は親族が居た島の玄関口・大泊に移り昭和22年1月に引き揚げて来た。

 「雪に黄砂が混ぢって黒くなる」といふお話は、樺太(特に西海岸の恵須取)が対岸の沿海州に近く我が国の他地域より大陸の影響を(様々な面で)より強く受けることを示す興味深い証言である(戰後「北海道恵須取会」が制作した冊子の題名は『沿海州の見える町』である)。

浜通り一帯が空襲で焼失したのは8月13日、そして17日(降伏後!)には上恵須取聚落が空襲で焼失してゐるので、おそらくこの頃布禮にも空襲がありそしてお二人の避難が始まったのであらう。

 恵須取から大泊までの避難経路に就いて、内路経由であったか西海岸を南下したのかは判然としなかったが、「丸惠」は珍内、名好といった西海岸を営業範囲として居り、内恵道路の区間は「樺太自動車株式會社」といふ別会社が営業してゐたらしくやはり(営業区間でもある)走り慣れた西海岸を薪バスで進んだと推察する(恵須取~上恵須取閒が両社で重複する営業区間となるため、その調整の故か内惠線の開業が數ケ月遅れたらしい)。

 引き揚げ船はお二人の証言から察するに昭和22年1月4日函館入港の「間宮丸」ではないかと思はれる(舞鶴引き揚げ記念館Webサイトを参照)。



























































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