坂本龍馬の北海道開拓
坂本龍馬(1835~1867)が北海道開拓にとても強い思いを寄せていたことをご存知でしょうか。
龍馬は蝦夷地(現在の北海道)開拓の試みを生前に数回行っているのです。
1864年(元治元年)、討幕を志す志士たちを弾圧から守るために龍馬は、自身の同志である彼らを守ろうと「黒龍丸」に乗せて蝦夷地を目指す計画。
亀山社中創設後に洋帆船「ワイルウェフ号」を購入。蝦夷地行きを計画したが、1866年(慶応2年)、同船が暴風雨によって五島塩屋崎で沈没。
海援隊創設後、大洲藩から借りた「いろは丸」は、1867年(慶応3年)に紀州軍艦「明光丸」に衝突されて沈没。
薩摩藩の保証で購入した洋型帆船「大極丸」で試みたが、船は支払いの問題(船価1万2千ドルの支払いのめどがたたなくなった)から運航不能となった。
「大極丸」での試みから間もなくして、龍馬は1867年(慶応3年)に京都の近江屋で暗殺されました。享年33歳でした。
龍馬は以下のような手紙を残しています。
「蝦夷地に新国を開くこと。これはたとえ一人でもやり遂げる覚悟だ。」という意志を同志へ宛てたもので、開拓への強い熱意が記されているのです。将来、幕府の解体により、若い武士たちは職を失うことになります(士農工商制度の廃止のため)。そのような彼らを蝦夷地開拓の力にしようという計画を龍馬は考えていたのです。龍馬の理想と情熱は彼の亡き後、明治政府が屯田兵として実現しました。そして北海道民の生活の礎が築かれたのです。
龍馬は北海道の地に立つことはできませんでした。しかし暗殺されて半年後には、坂本家の家督を継ぐ坂本直氏(坂本家の当主の一人、龍馬から数えて2代目。後にクリスチャンになっている)が函館府県判事として北海道へ来ています。
北海道の菓子メーカー「六花亭」の花柄包装紙。これは坂本家8代目当主の坂本直行氏が北海道の山野草を描いたものなのです。
坂本直氏の弟である坂本直寛氏は、一家共々高知県から北海道へ移住しました。これによって龍馬の北海道開拓の願いは彼に引き継がれたのです。自由民権運動で活躍をし、1884年(明治17年)には高知県会議員に当選しています。自由民権運動の活動中に、フルベッキ宣教師やG・W・ナックス宣教師との交流からキリスト教を学ぶようになります。そして1885年(明治18年)にクリスチャンとなりました。キリスト教主義に基づいた聖村建設のため、1895年(明治28年)、合資会社北光社を同志たちと設立して初代社長に就任します。1897年(明治30年)、開拓移民募集に応募した112戸、約650人の移民団が高知浦戸港を出発。やがて網走に上陸し、クンネップ原野を切り開いて北見市開拓の先駆者となりました。1898年(明治31年)に直寛氏は家族と浦臼へ移住。1902年(明治35年)には、「北辰日報」(キリスト教系日刊紙)が札幌で創刊され主筆を務めています。その後、キリスト教伝道を志して牧師となりました。旭川でピアソン宣教師と知り合い、旭川師団、十勝監獄、北見地方での伝道活動を休む間もなく精力的に行ったそうです。1911年(明治44年)9月、病気のため札幌にて永眠、享年58歳でした。
坂本直寛氏が北海道でキリスト教伝道を熱心に行っていたことを伝える逸話があります。
1907年(明治40年)、十勝監獄で直寛氏とピアソン宣教師が800人の囚人(多くは終身刑で、強盗、放火、殺人などの重犯罪者)へキリストの十字架刑における神の愛を伝えました。500人の囚人が悔い改めて救われたという出来事が起きたのです。また、看守たちも涙していたとのことです。
龍馬の北海道開拓への情熱は、クリスチャンとなった彼の親族たちがその願いを引き継ぎ実現していきました。数々の困難に見舞われたことでしょう。しかし、彼らを支え続けたのはなんだったのでしょうか?それは全知全能であり永遠に存在している生ける神、イエス・キリストへの信仰だったのです。
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