日本で初めての女性医師、荻野吟子
荻野吟子という女性をご存知でしょうか。日本で初めての女性医師です。彼女が生きた明治時代はまだまだ封建的な風習が色濃く存在していました。「女三従の道」という教えが一般的であり、女性を蔑視する社会だったのです。
『女大学』は、江戸時代中期以降、広く普及した女子教訓書で、その影響が明治になっても人々には浸透していました。19か条に分け、まず女子教育の理念、続けて結婚後の実際の生活の心得を説いているという内容です。
彼女は18歳で最初の結婚をしています。ところが、夫から性病(淋病)をうつされ大学東高(現在の東京大学医学部)に入院しました。その病状は生死をさまようような状態だったそうです。医師はすべて男性で、治療を受けることに対して大変な羞恥を感じました。それから、多くの女性が、自分の体を男性医師に見せることが苦痛で自殺をしたり、診察を受けずに一生病気の痛みに耐えて生活を送っていることを知るのです。彼女は入院中に女医の必要を強く感じました。そして、自らが医師になる決心をします。
病気がもとで離婚後、彼女は勉強を本格的に始めました。やがて、24歳で女性の教育養成を目的とした女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)へ1875年(明治8年)に入学し一期生として学びます。1879年(明治12年)主席で卒業後、私立医学校 好寿院で3年間、さらに学びを深めていきました。東京府(現在の東京都)に医術開業試験願を提出しますが、日本に女医は一人もいないことが理由で却下されます。女性が医師になった前例がない。女性が医師になるなどとんでもない、このような考えが一般的で門前払いされていたのです。しかし、彼女は初志貫徹、諦めることなく受験の申請を数年に渡って続けました。やがて、彼女の情熱に打たれた協力者が現れ状況に変化が起きました。1884年(明治17年)までこのような状況でしたが、同年9月に、医術開業試験前期試験に合格。1885年(明治18年)3月には後期試験を受験し合格。同年5月に診療所「産婦人科荻野医院」を開業したのです。女医を志してから15年が経過し彼女は34歳になっていました。
1884年(明治17 年)女子高等師範学校の後輩である古市静子と京橋新富座のキリスト教大演説会を聴き、強い感銘を受けています。後にクリスチャンとなった彼女は、廃娼運動にも熱心に取り組みます。1891年(明治24年)に起きた岐阜県での濃尾地震(記録が残っている日本の内陸域で発生した地震としては観測史上最大のマグニチュード8.0)では、石井亮一氏(大学在学時にクリスチャンになっている)の被災した20名余の女子の孤児たちを保護する活動(被災地で親を失った多数の孤児の中でも少女たちが人身売買の被害を受けていた)に賛同、荻野医院を孤児たちに解放し、彼女も子供たちの世話をしています。
1890年(明治23年)同志社大学で学び、敬虔なクリスチャンであった志方之善と再婚(吟子39歳、志方25歳)。1894年(明治27年)北海道瀬棚町(現北海道久遠郡せたな町)で医院開業、夫である志方が病気で亡くなった後に東京へ戻り、1908年(明治41年)本所区小梅町(現東京都墨田区)に医院を開きました。
1913年(大正2年)脳溢血により逝去。
後に「公益社団法人 日本女医会」にて、独自の活躍をもって女性の地位向上や、市井の医療に著しい貢献をした女性医師を対象として「荻野吟子賞」が1984年(昭和59年)に制定されています。
厚生労働省「令和2年(2020年)医師・歯科医師・薬剤師統計の概況」によると、「令和2年12月31日現在における全国の届出「医師数」は339,623人で、「男」262,077人(総数の77.2%)、 「女」77,546 人(同22.8%)となっている。」 とあります。
OECD(経済協力開発機構)は38ヶ国の先進国が加盟する国際機関です。女性医師の割合が、2015年(当時の加盟国は34ヶ国)のデータで日本は最低の21.1%。2020年(厚生労働省の調査)で22.8%。現在でも日本は、世界の先進国で最も女性医師が少ない国なのです。
困難に屈せず、日本で女性が活躍する礎を築いた彼女の人生から、私たちが学ぶことはたくさんあるのではないでしょうか。また、男女平等は日本で実現しているのかも今一度考えてみる必要がありそうです。
最後に彼女が愛唱した聖書のことばをご紹介します。
教会のホームページではさまざまな情報を掲載しています。
どうぞご覧になってください。