【Edge Rank 1016】セレンディピティ/トゥレンカムイ【TOMAKI】
2個のサイコロを振ったときに同じ目(数)が出ることを「ぞろ目」って呼びます。目が揃ってるから、揃いの目で、ぞろ目。
というわけで、11月は1の目が揃った月ということで、Edge Rankの今月共通テーマは「ぞろ目」です。
再び、中銀カプセルタワービル
さて、巨大なサイコロが積み重なったようなこの建物。1972年に完成した、黒川紀章さんによるとてもユニークなビル。「中銀カプセルタワービル」です。
静岡の工場でつくられたこのプリファブリケーションの「カプセル」は、トレーラーに載って銀座八丁目のこの場所へ運ばれ、コアシャフトと呼ばれる2本のタワーに一つ一つ接合されました。その数、全部で140個。分譲マンションとして発売された当初の価格は380万円から480万円。それが、バブルの絶頂期にはなんと4,000万円まで値上がりしたそうですよ。
本来であれば、20数年ごとにカプセルが交換されて新陳代謝をするという「メタボリズム」という建築コンセプトにのっとった建物でしたが、残念ながら50年間一度も交換されることはなく。住む人がいなくなった一部のカプセルユニットは、雨漏りなどでかなり劣化が進んでいました。
お風呂はあってもお湯が出ない。セントラルヒーティングの空調もとっくに壊れてしまって、各カプセルの住人たちがそれぞれ取り付けたエアコンの室外ダクトが血管のように建物のまわりに絡みつき、雨漏りを直そうにもゴンドラを下せないため外壁修理は職人さんがロープやブランコを使って手の届く範囲だけ作業を行うしかないという。いつからか、外壁を覆うように巨大なネットがビル全体に貼られて、部屋の中から外を見るとその格子状の網目が大きな丸窓の向こう側で風に揺れていました。
そもそもキッチンもなく、洗濯機を置くスペースもないこの建物ですが、竣工当時から都会でバリバリ仕事をするビジネスマンの会社でも自宅でもない「サードプレイス」として活用されていたと聞きます。近年では、建築家やフォトグラファー、デザイナー、編集者など、さまざまなクリエイティブな職種の方が住んでいたようですね。一時は、民泊サービスのairbnbの人気宿泊先TOP40にアジアで唯一ランクインされたこともあるほど、海外でも注目されて人気の建物でした。
2011年に一度取り壊しが決まったものの、なんとかその後も10年以上生き延びて、でも残念ながら竣工50周年を迎えた2022年4月に解体工事が始まり、9月末には更地になってしまった、と。
この中銀カプセルタワービルに私が住んでいた頃の思い出は、前回のEdge Rankにも書きました。
ちょうど今から3年前。2019年10月から11月にかけて、私はこの中銀カプセルタワービルに1か月間住んでいました。その間、友人たちを招待して、いろいろな遊びの企画を行ったのですが。その話はあとで続けるとして、いったん話は今から29年前、1993年に遡ります。
29年前のアイヌ語教室
1993年11月6日、私は国際基督教大学で国際先住民年のイベントとして開催された、「日本におけるアイヌ民族(THE AINU OF JAPAN)」というシンポジウムに参加してました。今から29年前、19歳の頃です。
父が北海道出身で、私自身も幼いころ札幌に住んでいたこともあり、アイヌの文化や伝統には昔から興味がありました。
シンポジウムは、朝9時半から夕方の17時半まで全七部構成で、パネルディスカッションやプレゼンテーション、踊りの実演や、ドキュメンタリー映画の上映など、さまざまなプログラムがありました。その中のひとつが、千葉大学の中川裕先生による「アイヌ語教室」でした。
この頃ちょうど私は、アメリカへ留学するために英語を身につけようと勉強していた頃だったので、語学というものにとても興味がありました。かつて、文字をもたなかったアイヌ語が、脈々と口頭伝承で受け継がれていたこと。近代に入ってからその言語が研究されるようになり、文字起こしされされた物語が本になったり、辞書がつくられるようになりました。ただし、29年前の時点ですでに、アイヌ語を日常的に話せる人は高齢化し、少なくなっていていました。そういったこともあり、アイヌ語についてもっと知りたいと思ったのでした。
英語の勉強に疲れたら、時々アイヌ語の辞典にのっている言葉を眺めて、文法も使い方もわからないけれど単語を並べて詩のようなものをつくったりもしました。その文章が正しいかどうか、あるいはどのようなアクセントで発音するのか、確認するすべはなかったですが。そんなようなことを留学してからも時々してました。
中銀カプセルタワーでアイヌ楽器の演奏を聴く
話は戻って、2019年。友人のアーヤ藍さんのコーディネートで、私が住んでいた中銀カプセルタワービルの部屋でアイヌ楽器の演奏を聴いてみようということになりました。前述のとおり、このカプセルの居住空間はそれぞれが独立してコアシャフトのタワーにくっついているという構造です。なので、部屋同士の壁はくっついておらず、隣の部屋の音なども直接は聞こえてこないのです。なので、音楽を聴くのにもぴったりな空間ということ。
アーヤさんのお知り合いのUtaEさんによる、アイヌ文化についての勉強会と、口琴楽器「ムックリ」の演奏会が行われました。小さな10平米のカプセル空間なので、UtaEさんを含めてたった5名のささやかな会です。竹と紐でつくられたシンプルなつくりの楽器なのですが、ビヨンビヨンという振動音を口の中で響かせてコントロールすることで、さまざまな音色と音階を自在に奏でることができます。見てるとカンタンそうなのですが、これがやってみるとめちゃめちゃ難しい。まず、音が出ない。紐を引っ張っても、竹が全然振動してくれない。UtaEさんにコツを教えてもらって、なんとかようやく音が出てくるようになりましたが、この楽器はかなり奥が深くて面白いです。今でも、自分のデスクの鉛筆立てに、この時譲っていただいたムックリが立てかけてあり、時々弾いてみたりしています。
そして、つながった
その後もUtaEさんが主宰するオンラインイベントに何度か参加していましたが、コロナ禍ということもあってなかなか直接お目にかかることができず。ようやく先月23日に、北千住で開催されたトークライブで3年ぶりに会うことができました。
この日は、アイヌ語研究者の中川裕先生もトークのパネリストとして登壇。実は、この中川先生が29年前にアイヌ語を教えてくれた方だったとは最初は全然気がつかず。「あれ?そういえば」と、29年前のシンポジウムのプログラムと、当日配布された資料を確認して、気づいた次第です。
そもそも、29年前の資料が手元に残っていたことが奇跡に近く。ずっと埼玉の実家の方にこの資料があったのですが、たまたま8月末に甥っ子たちのソフトボールの試合を応援しに行った際に、帰りがけに実家に立ち寄って「あ、こんな資料があったのか」と懐かしくなって東京へ持ち帰ってきたのでした。
そんな、奇跡のような偶然が重なって、中銀カプセルタワービルでUtaEさんと知り合って、さらにそこから3年経って再会し、さらに29年前にアイヌ語に興味をもったきっかけとなった中川先生にも会うことができた、と。
まさに、セレンディピティですね。こういう、無意識のうちに奇跡のような出会いがあったり、幸運が訪れることをアイヌのひとたちは「トゥレンカムイ」と呼ぶそうです。皆さんの後頭部、「ぼんのくぼ」と呼ばれるうなじの真ん中あたりのくぼんだところにいる神様のこと。そういう、擬人化された存在が実際に後頭部のくぼみにいるかどうかというのは、その人の信じ方次第ですが、48年生きてきた中で、単純に頭では理解できないような偶然の連鎖とか、あるいはびっくりするような素敵な出会いが突然訪れたりすることが確かにあります。それをセレンディピティと呼んでも良いですし、あるいは僥倖と呼ぶのもあり。もちろん、トゥレンカムイという呼び方もとてもぴったりときます。
というわけで、中銀カプセルタワーという場所がかつてあって、そこでアーヤさんやUtaEさんと音楽や時間を共有することができ、さらにそこから29年前のシンポジウムで出会った中川先生繋がったということは、まったく自分では意図していない奇跡的な偶然だったわけで、トゥレンカムイを感じます。
3年ぶりに動き出す
UtaEさんに3年ぶりに再会できたのもそうですが、ここ2年間は新型コロナの影響でみんなが集まることができずに人と直接会えない生活が続いていました。その間、オンラインでお互いの存在を確認したり、あるいは新しい生活様式のルールの中で少しずつ活動を行ったりもしてきました。
東京オリンピックが1年遅れで開催された時期に、私は同じく1年遅れで開催されることになった東京ビエンナーレにがっつりボランティアとして関わっていました。中止と延期を挟んで、ようやく今年になって自分にとって初マラソンである東京マラソンに出場し、完走することができました。その勢いで、2019年の第一回大会に続いて2度目の参加となる第4回東京エクストリームウォーク100にも出場。そして今月は、6回目の参加となる越後謙信きき酒マラソンに参加。直近の過去2回はオンラインでリモートからの参加だったので、現地で走ることができたのは3年ぶりです。
なにやら、おそるおそるブレーキを踏みながらアクセルをちょっとずつふかすみたいな感じで世の中が進んでいる感じですが。少しずつですが確実に新しい世界に向かって進んでいますね。
個人的にも、これまでの「日曜アーティスト」としての活動がいろいろと実を結んでいる感覚があって、アート展示の施工に関わったり、アートイベントでワークショップやファシリテーションを担当したり、あるいはアート作品を制作して展示する場所も広がっていったり。
とりあえずいろんなところに飛び込んでいたら、いつの間にか周りの景色が変わっていて、さらにいろんなことに挑戦できるようになりました。面白いです。サイコロのぞろ目が連発するレベルの奇跡みたいな幸運も、自分が無意識のうちに決断してきたことが関わっていると思うと、やっぱりトゥレンカムイだなぁと思います。
編集後記
2011年に北海道の余市蒸溜所でみんなで樽詰めした「マイウイスキー」が、10年の熟成期間を経てとうとう自宅に届きました。ちょうど10年前、趣味の創作活動にもっと時間を使いたいなぁと思って、余市で転職を決意したのでした。あれから10年経って、よい感じに自分の「日曜アーティスト」の活動も充実しています。先日の3331 Arts Fairでは、自分の作品が1点売れました。けど自分が本当にうれしかったのは作品が売れたことではなくて、その展示空間をみんなと一緒につくりあげることができたこと。インパクトドライバーを片手に、作品を展示する棚をつくったりね。ちょうど現在も、知人が運営する「東リ町アートフェス」に作品を展示していますが、それよりも僕が自慢に思うのは、その展示会場のあちこちで僕がデザインしたスタンプラリーのハンコが設置されて、みんながそれを使ってくれているということ。作品をつくることよりも、そこから派生する人とのつながりとか、交流が面白くて、いろんな活動にどんどん飛び込んでいます。週末の、趣味の活動なのでね。楽しいですよ。
今回も、お読みいただきありがとうございました。
次号は、「東京散歩ぽ」の中川マナブさんです!
「日曜アーティスト」を名乗って、くだらないことに本気で取り組みつつ、趣味の創作活動をしています。みんなで遊ぶと楽しいですよね。