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パウダーの森
僕は三十三歳で、そのときセンター 122のフィッシャーに乗っていた。その極太なスキー板は分厚い積雪をくぐり抜けて下降し、沢のボトムに達しようとしているところだった。一月の冷ややかな風雪が大地を包み、ゴアテックスを着たスキーヤーたちや、のっぺりとした雪面や、ぶなの幹やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、またパウダーか、と僕は思った。
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パウダーはいくつかの相反する特質をきわめて極端なかたちであわせもっていた。時として僕でさえ感動してしまいそうなくらいフレッシュで、そして同時に、おそろしく早くギタギタになった。びっくりするほど高貴な精神を持ち合わせていると同時に、どうしようもない俗物だった。
「今度俺と滑りに行こうよ。大丈夫、簡単に滑れるから」
僕はその時彼の言葉をまったく信じなかったけれど、実際にやってみると本当に簡単だった。あまりに簡単すぎて気が抜けるくらいだった。彼と一緒にコルチナか斑尾の線下だかツリーだかに入って(溜まる場所はだいたいいつもきまっていた)、適当なノートラックを見つけて勢いをつけ(世界はノートラックのパウダーで満ちていた)、突っ込み、それからパウダーをまき散らした。
パウダーは柔らかく、新鮮で、よく制動が効いたから、僕は一緒にいるだけでなんだかいい気持ちになってしまうのだ。そして、これは僕としてはすごく不思議なのだけれど、彼と一緒にいることで僕までがどうも魅力的な男のように見えてしまうらしかった。僕がパウダーにせかされてスプレーをあげると女の子たちは彼に対するのと同じように僕の滑りに対してひどく歓声をあげたり笑ったりしてくれるのである。全部パウダーの魔力のせいなのである。
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僕は三日か四日そんな風にパウダーと戯れたあとで、ジョニーさんに質問してみた。こんなことを何十日もつづけていて空しくならないのか、と。
「お前がこういうのを空しいと感じるなら、それはお前がまともな人間である証拠だし、それは喜ばしいことだ」と彼は言った。「新しい雪を滑って回って得るものなんて何もない。疲れるだけだ。そりゃ俺だって同じだよ」
「じゃあどうしてあんなに一生懸命やるんですか?」
「それを説明するのはむずかしいな。ほら、ドストエフスキーが賭博について書いたものがあったろう?あれと同じだよ。つまりさ、可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごして通り過ぎるというのは大変に難しいことなんだ。それ、わかるか?」
「わかる気がする」と僕は言った。
パウダーはその夜標高2000m以下で死んだ。日本海低気圧の通過により温暖で湿った空気が入り込み、雨を降らせたのだ。死ぬまでにどれくらいの時間がかかったのか、僕にはわからない。木曜日の夜になりようやく滑る準備を始めたとき、彼はもう死んでいた。
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僕はザラメに電話をかけ、君をどうしても滑りたいんだ。滑る斜面がいっぱいある。登らなきゃいけない山がいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会って滑りたい。何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。
やがてザラメが口を開いた。「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるのだ?
僕はスマホを持ったまま顔を上げ、自分のまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく続いているアイスバーンと果てしないデブリだけだった。僕はどこでもない場所の真ん中からザラメを呼び続けていた。
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引用:『ノルウェイの森』村上春樹、念のため
カバー写真と2枚目の撮影は、松岡祥子