トム・ホーバスの指導法の問題点について
先日書いた恩塚HCについての記事がとてもよく読まれています。個別具体的な改善点はあるものの、大筋では恩塚の考え方は合理的な方向性であると評価しています。今回は、比較されることの多い前任のトム・ホーバスHCに焦点を当ててみます。彼はどんなコーチングをしていたのか。小永吉陽子『女子バスケットボール東京2020への旅』とトム・ホーバス『チャレンジング・トム』を参考に読み解いていきます。先んじて結論を述べておけば、ホーバスの指導には問題があったと私は思います。教育心理学等の知見も交えながら説明したいと思います。
選手たちは頭を使っていたのか
小永吉は東京五輪の女子チームを評して、「決してシステマチックではなく躍動感があった」「一人ひとり役割が決まっていても、自分たちで判断できるまでにやり込んでいたことにより、本番のコートでは柔軟に対応できた、というわけだ」などと述べ、選手たち自身が頭を使って判断していた点を繰り返し強調しています。ホーバスも同書内のインタビューで「ウチの選手たちは頭を使って動くのが大好きですよ。」と答えています。しかし2022W杯で「脳に負荷がかかりすぎて」(恩塚HC)頭も体もうまく動かなかった選手たちを見ている私たちとしては疑問に思うわけです。五輪チームの選手たちは本当に頭を使っていたのだろうか?と。
ホーバス本のほうにはその点がもっと詳しく書いてありました。引用します。
これは極めて重要な箇所だと思います。要するに決められたルールどおりにやりなさい、としか言っていないわけです。ただしそのルールが細部に渡り膨大な数があるので、遵守するためには頭を使う必要がある、というだけの話なのです。私は正直ぶったまげました。頭、使ってないじゃん。
また、この引用の最後の部分が恩塚HCに対する強烈な批判になっていることもお分かりいただけると思います。まさに恩塚がやらせていることが、「ディフェンスがこう来たら、こう動いて」というバスケットだからです。
五輪準々決勝の林の劇的な逆転3Pの場面をホーバスは詳しく語っています。2点ビハインドの残り37秒の場面でした。ホーバスはバックドアプレーを指示しますが相手ディフェンスに対応されます。そのまま時間が流れますが、選手たちの判断で、数あるフォーメーションの中からこの状況で使えるものを1つを選び、町田のドライブから林へのキックアウトというプレーになったのだそうです。これを指してホーバスは選手たちの判断力を称賛しているわけですが、選手がしたことはいくつかのフォーメーションの中から選択しただけですから、さほどのことではないでしょう。このように、ホーバスは選手に要求する思考力、判断力の水準がかなり低いといえます。やはりホーバスのバスケットは、よく知られているようにシステマチックなバスケットなのです。細かいルールが決められており、選手たちの役割も決められています。HCの戦略的パズルを遂行するために、選手たちはこれらのルールを徹底的に遵守することが求められました。その戦略が良かったから結果が出たのでしょう。
叱る指導法 髙田と宮澤について
ホーバスは五輪で金メダルという目標を掲げ、そのために必要な厳しい練習を課しました。その練習中にヘッドダウンする選手がいたら檄を飛ばしたと言います。引用します。
驚くのは、選手が言い返すのも良くないと言っていることです。非常に一方的な上意下達の指導法です。心理学の今年のベストセラーである村中直人『叱る依存が止まらない』によれば、叱るとか怒るという行動は、相手にネガティブな感情を引き起こすことによって意のままにコントロールしようとする行動であると定義されています(解説記事も書きました)。そして重要なことは、叱られた人はIQが下がることが判明しているのです。だから叱る教育は意味がないと結論付けられています。ホーバスの指導法について考える本稿の主旨にとっては必読文献だと思います。ちなみに同書では、叱る人の意図は叱られる方にとってはまったく関係がないとされています。どんなに高邁な意図をもって叱ったとしても、叱られた人はただ「怒られた」と感じるのであり、ネガティブな感情が噴き上がるだけだということが、認知科学の研究で分かっているのです。これによるとホーバスの思想は根底から揺らぐことになります。
ホーバスは、「宮澤や林のように熱い気持ちを前面に押し出してくる選手のほうを信頼します」と言い、髙田にはそれが足りなかったと振り返っています。髙田は良くも悪くもマイペースであり、だからWリーグで優勝したことがないのだとまで言っています。その髙田をキャプテンに据えたのは、髙田に変わってもらいたかったからだと言います。
まるで中間管理職です。マイペースな髙田を変えようしてホーバスは激しく介入していたようです。練習がたるんでいたら皆の前で髙田を叱ったと言います。そういうやり方でチーム全体にプレッシャーをかけていました。しかし、髙田はあくまで髙田のやり方でチームをまとめているということに徐々にホーバスは気付くようになります。
ここで注目したいのは、宮澤や林は当初からホーバスのお気に入りだったという点です。それに対して髙田はそうではなかった。ホーバスいわく、宮澤や林は相当負けん気が強いらしく、試合中に「もっとスリーポイントを打ちなさい」と注意すると舌打ちをしたり睨み返してきたりしたそうです。ホーバスはそういう選手を好んで選考してきました。逆にメンタルタフネスが足りないと思う選手は容赦なくカットしたといいます。ホーバスの指導は厳しく、その厳しい指導に耐えられる選手しか残さなかったということです。宮澤の言葉を引用しましょう。
宮澤が代表チーム内で随一のホーバス理解者だったことがうかがえます。一方、ホーバスから見ると、宮澤のロールはとにかくスリーポイントであり、クリエイティビティは乏しく、またチームとしてもそれは必要としていなかったと言います。林も似たようなものでした。このようにスリーポイントに特化させた宮澤や林が五輪で大活躍したのは周知のとおりです。相性が良かったのでしょう。ではクリエイティブな選手は誰なのかというと、町田、本橋、髙田の名前を挙げています。22年W杯に出場したのはこのうち髙田だけですが、髙田は恩塚の下でもしっかり仕事をしていました。宮澤のほうは生命線の3Pが入らず、プレータイムすら満足にもらえなくなり、大会後は自分の選手としての価値が分からなくなるといった苦しい発言がありました。ホーバスにクリエティブではないと言われた宮澤が大苦戦する一方、クリエイティブであると評された髙田は結果を残したことになります。これを見れば、ホーバス体制に適応力の高い選手と、恩塚体制に適応力の高い選手は異なるのではないか、という示唆が得られると思います。これまで恩塚は五輪メンバーを中心にメンバーを組んできましたが、ここからパリ五輪までの2年間は、ホーバスがメンタルタフネスの基準で選手を容赦なくカットしていったように、恩塚は恩塚のバスケットができる選手を選び、残していくことがより重要になると思います。
今は去りしホーバスの言を引用しておきます。
もちろんこれも正論だと思います。皆さんはこんなトムさんが恋しいのかもしれません。このホーバスの発言を読むと、恩塚のバスケットでは宮澤のような選手は活躍できなくなってしまうことを予言していたかのようでもあります。まさに恩塚のバスケットで必要なのはオープンスキルやクリエイティビティということになるでしょう。ということは、今後はその能力による選手たちの再序列化が行われることになるのかもしれません。ホーバスがメンタルタフネスはDNAかもしれないと言っているように(p83)、クリエイティビティもDNAかもしれません。才能や資質で差別する点では両者は変わりません。
恩塚がリベラルエリートの個人主義者で、ホーバスが中小企業の鬼経営者のように見えてきます。人材の能力に凸凹があり、出来ないことも多々あることを前提として組織を作るなら、ホーバスの組織論には一理あるでしょう。その代わり、選手を役割に嵌め込むパズルのような手法なので、選手には我慢するメンタルタフネスばかりが要求される事態も招いたと思います。これは極めて日本的な、伝統的な組織論であり、外国人であるホーバスがこれを採用したことも興味深いですが、外国人から見ても日本人の強みはそこだと思ったということなのでしょう。そして今度は、日本人のHCがグローバル基準のチーム作りをしているように見えます。
五輪で金メダル その目標は誰のものだったのか
もう1つ検討したいことがあります。ホーバスの有名な「五輪で金メダル」という目標についてです。
ホーバスは本当に五輪で金メダルを取れると信じていたといいます。それくらい日本選手はレベルが高いと評価していたらしいです。それは別に良いのですが、次の箇所は引っかかります。
つまり、ホーバスはまず自分で目標を決めて、それを選手たちに繰り返し説いて、選手たち自身の目標にさせたのだといいます。そして、選手たち自身の目標になった以上は責任を持ってやり遂げなければならないという論理になります。しかし私に言わせれば、これはよくある詭弁です。組織のトップが決めた目標を上意下達で浸透させたにすぎません。そもそも選手たちに否という自由はあったのでしょうか。会社でもまったく同じことが起こっています。経営者は必ず「社員が自主的にコミットしてくれている」と言います。しかし実際には、有無を言わさぬ強い誘導・介入があるわけです。にもかかわらず、いったん踏み絵を踏ませた後は、これはお前たち自身の目標なのだから言い訳せずに頑張れという理屈に転化されるわけです。
私は以前ブログで「一月万冊」というYouTubeチャンネルを批判していたことがあります。のちにビ・ハイア事件として有名になりましたが、番組のレギュラーだった社員が自死した事件です。このビ・ハイアという会社は社内でコーポレート・コーチングなるものを実践していました。これがまさにホーバスの方法論とそっくりなのです(参考記事)。私がホーバスをブラック企業経営者に喩えるのはそのためです。
まとめ
ホーバスの指導法は私の価値観からはまったく受け入れられません。恩塚もそれを引き継ぎませんでした。しかしホーバスのアナリティクスは合理的で優れていましたので、恩塚はそれを継承しています。両者で異なるのは選手に求めるコア能力だと思われます。ホーバスはとにかくタフであることを求めました。恩塚はクリエイティブな思考力を要求するでしょう。恩塚を批判する人たちは、日本人の選手にはそんな能力はないと思っているようです。しかし、ホーバスの「日本的経営」が成功したのは一度きりのボーナスだったのではないでしょうか。(東洋の魔女と言われたかつての女子バレーのように。)バレー界も今、ワールドスタンダードに追いつく流れになっているようです。結果を出しつつある男子バレー日本代表の考え方を解説した記事を紹介しますが、恩塚の考え方と驚くほど近いことが分かると思います。
女子バスケも、シュートは片手で打つべきでしょうし、PG以外もドライブからプレーメイクできるようになるべきでしょう。銀メダルという大きな遺産を手放すのは惜しい気もしますが、やはり変革していかなければいけないのだと私は思います。