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ちっちゃな頃、どんな子どもでしたか
『ギザギザハートの子守歌』と『うっせぇわ』
1983年に発表されたチェッカーズの『ギザギザハートの子守歌』、40代の私には懐かしい曲です。印象的なイントロのあと、「ちっちゃな頃から悪ガキで~」で始まる歌詞。時は流れ、2020年にAdoの『うっせぇわ』が大ヒットしました。こちらは今風にイントロなんかすっ飛ばして、アニメの決め台詞のような歌詞で始まった直後、「ちっちゃな頃から優等生~」と続いていきます。
あれ、、、『ギザギザハート』と似てるな、、、。そんなことに今さらながら気づいたので、それぞれの歌詞が映す時代ごとの若者の感性の変化について少し考えてみました。
自己像と社会像の対比
『ギザギザハートの子守歌』の主人公は、不良の高校生。「ちっちゃな頃から悪ガキ」だったオレは「15で不良と呼ばれ」、周囲に強がることで自分の存在を狭い世界でアピールしようとしています。若者らしい率直な反抗心と同時に、どこかで大人からの理解や認知を求める複雑な心情が表現されています。
サビ中の「わかってくれとは言わないが、そんなに俺が悪いのか」という一節は、単なる不良ぶりの誇示ではなく、自己評価と他者評価の間で揺れる内面の葛藤を感じさせます。これは、当時の若者が持っていた「反骨精神」と「承認欲求」が混在した姿を如実に物語っていると感じます。
一方、『うっせぇわ』。こちらは対照的に「ちっちゃな頃から優等生」。現代の若者が幼少期から「良くあれ」と過度な期待を押し付けられ、常に規範に従うことを強いられている現実を示しているようです。
しかし、完璧さの裏側には、社会の押し付けるルールやマニュアルに対する内面からの反発―すなわち「もう、うっせぇわ」と叫びたくなるほどのストレスや虚無感が渦巻いています。現代の若者は、外見上は優等生でありながらも、その内面に屈折した不満と孤独を抱えているという表現なのでしょう。
社会背景が生む若者心理の変容
1980年代は高度経済成長期の余韻が残り、単純な善悪の二元論や、明確な反抗心が尊重される時代でした。『ギザギザハートの子守歌』の主人公は、荒削りな不良という顔を持ち、素直に「分かってくれ」とは言えない。けれど、傷ついた心は「ギザギザ」。どこかで周囲への理解を求めつつ、自身に向けた「子守歌」でズタズタ(になっていると勘違いしている)自身の心を癒やそうとしています。
若者たちは、反抗する中にも素直な心情を持ち合わせ、自己の存在意義を模索していたのです。だから、尾崎豊も「夜の校舎 窓ガラス 壊して」まわったのでしょう。尾崎が描く若者は、破壊的な衝動を社会全体には向けません。その対象は、自分が通う学校。組織にしばられることにモヤモヤした気持ちを抱えながら、それでも中退せず普通に過ごした3年間。一歩が踏み出せない自分のふがいなさを叱咤するように、爆発しそうな衝動を学校の窓ガラスにぶつけます。
対照的に、現代は情報化社会が進展し、SNSが普及。個々の存在が過剰に評価される一方、常に完璧を求められる風潮が強くなりました。『うっせぇわ』に見られる「優等生」というフレーズは、そうした現実の象徴であり、若者たちが自己の内面に抱く矛盾―完璧であれという外部からの圧力と、現実に感じる孤独や苛立ちを鋭く浮き彫りにしています。
社会全体が均一性を求める中で、個々の感情や多様な価値観が軽視される現状に対し、皮肉混じりの叫びが響いているようです。
オマージュでありながらも
『うっせぇわ』は、しばしば『ギザギザハートの子守歌』へのオマージュと指摘されます。しかし、もちろん単なる模倣ではなく、現代ならではのアレンジが施されています。
昔の曲が、不良としての反抗心と同時に「認められたい」という温かみを帯びた姿を描いていたのに対し、現代の『うっせぇわ』は、完璧を求められる環境の中で、若者が感じる孤立感や自己否定を、あえて辛辣かつユーモラスに表現しています。
昔の不良たちは、ケンカすることで自分の存在を分かってもらおうとしました。一方で、社会人1、2年生と推察される『うっせえわ』の主人公は、会社の上司(太ったおっさん)の助言に内心で猛反発しつつ、具体的な行為で自分の内心を表現することはしません。会社の窓ガラスは決して割らず、「アタシも大概だけど どうだっていいぜ問題はナシ」と妙な自己完結をしてしまいます。結局、何も変わらないまま次の日も出社するのでしょう。
こうして見ていくと、どちらの歌詞も若者の内面を映す鏡でありながら、時代背景の違いによって表現の方法が大きく変わっていることが分かります。
変わらぬ若者の叫び
結局のところ、『ギザギザハートの子守歌』と『うっせぇわ』は、どちらも若者が自らの内面や社会へのフラストレーションを吐露する表現になっていると言えます。前者は、反抗と同時に内面の葛藤と温かさを持つ不良の姿を描き、後者は、完璧を強いられる現代社会の矛盾と、それに対する痛烈な皮肉を込めた作品です。現代の若者は「同調圧力への反発と疲弊」という、より複雑で屈折した心情を抱えています。
二つの楽曲を通して見えてくるのは、時代が変わっても「自己の存在意義」や「社会との関係性」への問いは普遍的であり、若者たちの叫びは常にそこにあるということです。どちらが優れているか、またはどちらが正しいかではなく、時代ごとに異なる「生き方」の表れとして、それぞれが深い意味を持っているのだと言えます。
今回は珍しく、飯田橋博士とトウマくんが登場しないパターンになりました。
最後までお読みいただきありがとうございます。きょうも一日、あなたに良いことが起こりますように!
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