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ふみサロ《リブリオエッセイ》の宿題「エピソードからテーマへ」のブラッシュアップ 課題図書:『かぼちゃの馬車事件 スルガ銀行シェアハウス詐欺の舞台裏』

このnoteに投稿しているエッセイは「ふみサロ」で月一回書くことになっているリブリオエッセイです。
この令和5年4月の課題図書は『メモの魔力』でした。
そして、その4月のふみサロで出された宿題が「過去の自分のエッセイから一つ選んで『エピソードからテーマへ』のつながりを改善してブラッシュアップしましょう」というものでした。

そこで、以前に書いたエッセイを自己添削し、ブラッシュアップしてみました。
まず、もともとのエッセイです。
課題図書は『かぼちゃの馬車事件 スルガ銀行シェアハウス詐欺の舞台裏』でした。


かぼちゃの馬車事件から学んだこと

 人には義憤に駆られることがある。
 とは言ってみたものの、思い返すと私が義憤に駆られたのは3回で、すべて子供の頃のことだ。

 1回目は、小学校に上がる前。
 2歳年下の弟が公園から泣きながら帰って来て、「砂場で遊んでいたらここで遊ぶなといじめられた」と私に訴えてきた。「けしからん」と思った私はその公園まで行って相手に「どういうことだ!」と迫って退散させた。

 2回目は中学1年か2年の頃のこと。
 まだ小学生の弟が、下校中に私の中学の同級生から継続的に嫌がらせを受けるという。弟の背後からランドセルを拳で突っつかれるというのだ。私は、なぜそんなことをするのか見当もつかなかったので、怒りつつも「どうして突っつくの?」と質問をした。同級生は理由を明確に答えられなかった。しかし、それ以後は突っつかれることはピタッとなくなったと弟から報告があった。

 3回目も中学生の時のこと。
 友人に私のラジオ自作キットのカタログ本を貸したのが発端だった。その友人が私に「児玉君、ごめん」と言って泣きついてきたのだ。その友人は彼の友人?にからかわれ、その本を取り上げられバラバラにされてしまったのだった。その残骸となった紙の束を私に持ってきて「ごめん、僕が悪いんだ」と彼が泣くのだ。私は怒った。「こんなことをした奴は誰だ? 会わせろ」と彼に言おうと思った。けれど、この時私はそうは言わなかった。「いいよ、こうなったのは君が悪いわけじゃない。やった奴が悪いんだから」と友人に言ってとがめないことで事を収めたのだった。当時そう感じなかったが、結果としては泣き寝入りだといま思う。

 これ以降、私は義憤を感じたことはない。大人になって「~べき」や期待も捨てたので怒り一般もほとんど感じなくなった。でもそれでは凡庸な処世術にしかならないのかもしれない。ただのお人好しではいけない。義憤に駆られ行動すべき時があるのだと学んだ。

(793字)


さて、このエッセイを読み返したとき、結びの段落が、エピソードからテーマまで機械的につなげているだけ終わってしまって何の面白みもないことに気がつきました。
そこで、子どもの頃のエピソードを一つだけにして、エピソードがテーマにつながる過程をかみ砕いて書いてみることにしました。

それが以下のエッセイです。かなり良くなったと思います。


人には義憤公憤に駆られるべき時がある ~かぼちゃの馬車事件から学んだこと~

 人は義憤や公憤に駆られることがある。
 とは言ってみたものの、思い返すと私が義憤に駆られたのは3回で、すべて子供の頃のことだ。そのうちの1つは以下のようなものだ。

 中学生の時のこと。
 友人に私のラジオ自作キットのカタログ本を貸したのが発端だった。その友人が私に「児玉君、ごめん」と言って泣きついてきたのだ。その友人は彼の友人?にからかわれ、その本を取り上げられバラバラにされてしまったのだった。その残骸となった紙の束を私に持ってきて「ごめん、僕が悪いんだ」と彼が泣くのだ。私は怒った。「こんなことをした奴は誰だ? 会わせろ」と。けれど、私はそう言わなかった。「いいよ、こうなったのは君が悪いわけじゃない。やった奴が悪いんだから」と友人に言って咎めないことで事を収めたのだった。
 当時は気づかなかったが、結果的にこれでは泣き寝入りだったといま思う。

 これ以降、私は義憤や公憤を感じたことはない。大人になって「~べき」や期待を捨てたからだ。
 認知療法によると、怒るのは、「~べき」という基準が自分の中にあり、相手がその基準を満たさないからだという。それを知った私は自分の中から「~べき」を追放した。その結果、怒り一般を感じなくなり心が安定するようになった。
 これは大きなメリットだった。だが、同時に世の中・社会に対して「これはおかしいんじゃないか?」と疑問に感じたり、良い意味での公憤を感じたりすることもなくなった。
 犯罪で人が亡くなれば悲しみは感じる。しかし犯人に対して「法律を守るべきなのに」と怒りを感じることがなくなったことが大きい。許してしまうのだ。

 巨悪に巻き込まれたとき、私はどう感じるのだろう?
 「~べき」を捨てたから怒らなくなったといってもそれでは凡庸な処世術にしかならないのではないか?
 かぼちゃの馬車事件を知ると、ただのお人好しではいけないと気づく。人には許すことをせず義憤公憤に駆られ行動すべき時があるのだ。

(800字)


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