対話しようとしない人々を受容するには
言論の自由は、私たちの多様性を保障する大切な理念だ。しかしいま大きな問題が発生している。それは、跋扈する陰謀論とフェイクによる言論への疲労感の堆積だ。それにより、社会が互いに交流することのない島宇宙の寄せ集めになってしまっている。
良い意味でリベラルといわれる人たちは自由な言論と多様性を歓迎してきた。しかし、陰謀論とフェイクは言論の土俵に上がろうとしない。その結果、リベラルのいう多様性は対話可能性に依存したものだったことが露呈した。陰謀論とフェイクは自分の島宇宙の内にこもり、外と対話しようとしないからだ。オーソドックスな言論により対話を試みても話が通じず、疲労感がたまるばかりだ。真の多様性とは話の通じない人々を受容することだったのだ。それは可能だろうか?
言論の自由を確保することで私たちは近代以降を作り上げてきた。そこでは、肉体的・言語的な暴力を排除したうえで、私たち各人が「対話することを求める」ことが前提とされていた。しかし、陰謀論とフェイクは自説を信じ一方的に発信・拡散するだけで、外部との交流をとおして自説を吟味し直すことをしない。その志向がない。
これは宗教に似ている。宗教に対しては、私たちは信教の自由を保障するという対応をしてきた。陰謀論とフェイクに対して信教の自由は適応するのだろうか? 私は、陰謀論とフェイクについて宗教かのように喩えることは可能だとしても、厳密には違うと思う。陰謀論とフェイクが具体的な社会的事実に対して「本当の真実」を語るのに対し、最良の宗教は神の存在と死への対応について、またそれをふまえた生活のあり方について語るからだ。語る内容の層が違う。
宗教を信じているわけではない、話の通じない人々・対話しようとしない人々の出現は、言論の自由が想定していなかった事態ではないだろうか? 暴力を排除したうえでこれらの人々を受容するには、新しい理念が必要なのかもしれない。
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このエッセイについて
『本を出そう、本を出そう、出したらどうなった?』の「私の理想は『自由』なのです」(p.162) という著者の言葉にグッときました。最近、ルソーやカントの入門書を複数読んでいたからだと思います。その入門書の一つに「知識の共有はいかに可能か」の見出しで陰謀論について触れているものがありました。そこでの結論は「対話による」でした。それも理解はできたのですが、私としては「そもそも対話をしようとしない人たち」が相手なのだという側面を強調して考えてみた次第です。工夫としては、それぞれの段落で語ることを明確にし、一つずつ論理を積み上げました。エッセイの結論としては「考えてもわからなかった」が本当のところです。消化不良です。