
マッドマン・セオリーと孫子と帽子屋 - - 現代に見る「狂気」の戦術
はじめに
「マッドマン・セオリー(Madman Theory)」という言葉を聞いたことがありますか? 直訳すると「狂人理論」となりますが、これは実はアメリカの歴史、特に冷戦時代の外交戦略に深く関わる考え方です。
一方、もう一つのキーワードである「孫子」そして「帽子屋」。
これらとの関係とあわせて書いてみたいと思います。
マッドマン・セオリーとは
「マッドマン・セオリー(狂人理論)」は、アメリカの第37代大統領リチャード・ニクソンが採用した外交手法で、敵対国に対して自身を予測不能で危険な存在と認識させることで、相手に譲歩や交渉を促すものです。
具体的には、ニクソン大統領はベトナム戦争中、北ベトナムに対して自身を「何をしでかすかわからない人物」と思わせる情報を意図的に流し、交渉を有利に進めようとしました。この手法は、相手に恐怖や不安を抱かせ、行動を制限させることを目的としています。
また、政治思想家のマキャベリも「気違いじみたふりをするのは非常に賢いことだ」と述べており、予測不能な行動が相手に与える心理的影響を重視しています。
これらの手法は、相手の判断を狂わせ、自らに有利な状況を築くための手段として利用されてきました。
孫子の兵法との関係
「マッドマン・セオリー」は、『孫子』の冒頭にあたる「計篇」に登場する有名な一節、「兵とは詭道なり(戦争とは欺瞞である)」という教えと似ています。この言葉の意味は、戦争における基本原則は「詭道(きどう)」、すなわち騙しや策略であるということです。
しかしこれは、単なる「だまし討ち」ではなく、状況を冷静に分析し、相手の心理を突く柔軟な戦略の重要性を教えているのです。
この考え方は現代のビジネス戦略にも応用できます。例えば、競合他社に自社の本当の狙いや戦略を悟られないようにすること、交渉の際に意図的に弱みを見せることで有利な条件を引き出すことなども「詭道」の一種と言えるでしょう。
帽子屋とは
ルイス・キャロルの名作『不思議の国のアリス』には、「帽子屋」が登場します。彼はお茶会の場面でアリスと出会う風変わりなキャラクターで、無秩序で予測不能な言動を繰り返します。
彼の行動は一見、無意味に見えるかもしれませんが、その背後には物語全体を通して「論理の裏返し」や「常識への挑戦」といったテーマ/キャロルの仕掛けが隠されているのです。
「マッドハッター(Mad Hatter)」と呼ばれることもあり、その「狂気」は19世紀のイギリスにおける実際の職業病に由来すると言われています。当時、帽子職人が使っていた水銀が原因で神経障害を引き起こし、精神的に不安定になることがあったのです。
マッドマン・セオリーのメリットとデメリット
この手法にはメリットとデメリットの両面があります。
(1)メリット
A.敵に対する抑止力の強化
→自国の指導者が何をするかわからないという恐怖心を相手国に植え付け、リスクを冒した行動を防ぐ
B.交渉の有利な進行
→相手が「予測不能な行動を取られる可能性」を考慮するため、交渉時に譲歩を引き出しやすくなる
C.心理的な優位性の確保
→相手国に不安や恐怖を与えることで、心理的な優位を維持できる場合がある
D.柔軟な外交戦略の可能性
→相手国が一貫した行動予測ができないため、より広い選択肢の中から柔軟に対応できる余地が生まれる
(2)デメリット
A.信頼性の低下
→同盟国や友好国から見ても「予測不可能なリーダー」と映る可能性があり、外交関係が悪化することがある
→長期的な国際的信用を失うリスクがある
B.意図しないエスカレーションのリスク
→相手国が本当に危険を感じて、先制攻撃や強硬な対応を選ぶ可能性がある
C.内部の不安定化
→国内でもリーダーの不安定さが懸念され、政治的な混乱や経済の不安につながる場合がある
→国内外の市場に対しても不安を与え、経済的な影響が出ることがある
D.持続可能性の問題
→長期的に「狂人」を装うことは難しく、戦略としての持続性に限界がある
→時間が経つにつれて、相手が戦略を見破り、効果が薄れることがある
参考となる書籍
(1)戦略的思考とは何か エール大学式「ゲーム理論」の発想法
アヴィナッシュ・K・ディキシット/ バリ・J.ネイルバフ【著】
CCCメディアハウス(1991/1)
エール大学で教授される戦略思考の原点をビジネス・映画・スポーツ・国際政治などの例を用いてわかりやすく解説。
(2)孫子の兵法
湯浅 邦弘【著】
角川文庫/角川ソフィア文庫
彼を知り己を知れば、百戦して危うからず”現代に生きる孫子の兵法を学ぶ。
史上最高の兵法書といわれる『孫子』。二千年以上の時を超え読み継がれる兵法は、どのように生まれ、伝承されてきたのか。現代社会を生き抜くため、ビジネスに応用するために必要な、兵法戦略の要点と特色を明らかにする。兵法用語や兵書名を簡潔にまとめた「中国兵法小事典」付き。
(3)不思議の国のアリス―ヴィジュアル
詳註つき (新装版)
ルイス・キャロル【著】、高橋 康也/高橋 迪【訳】
河出文庫/河出書房新社(2022/08)
世界中で愛される名作ファンタジー。不思議でノンセンスで妙ちくりんなキャラクターたち。豊富な注釈とヴィジュアルで新たな発見に満ちた不思議の国へご招待。初版からおなじみジョン・テニエルの挿絵つき。
おわりに
マッドマン・セオリーは、短期的な抑止効果や交渉の優位性をもたらす可能性がありますが、長期的な信用の低下や偶発的な衝突のリスクを伴う、極めてリスクの大きい手法です。
特に核抑止や軍事外交の場面では慎重な使用が求められるでしょう。
単なる「脅し」や「だまし討ち」ではなく、状況を冷静に分析し、相手の心理を突く柔軟な戦略が重要です。
現代の社会では、短期的な成功や自身の利益を求める傾向もみられますが、より長期的な信頼と安定を重視することは重要です。持続的な戦略として、マッドマン・セオリーは適していないとされています。