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ロシアがなぜウクライナにこだわるのか?01 ウクライナの歴史知りたい?

ウクライナとロシアの停戦交渉が進むのでしょうか。
ウクライナの紀元前後の歴史について見ていきましょう

### 1. スキタイ人とサルマタイ人の文化

紀元前8世紀から紀元前3世紀にかけて、スキタイ人は黒海北岸の草原地帯を支配しました。彼らは優れた騎馬技術と金細工で知られており、その文化は広範囲に影響を与えました。スキタイ人は遊牧民として生活し、戦闘能力に優れ、広大な草原地帯を移動しながら家畜を育てていました。また、スキタイ人は金細工の技術に秀でており、多くの遺物が現在でも発見されています。


紀元前3世紀以降、サルマタイ人がスキタイ人に代わって地域の主要勢力となりました。サルマタイ人も遊牧生活を営み、黒海からカスピ海にかけての広大な領域を支配しました。彼らは馬や弓矢を駆使した戦闘に優れ、ローマ帝国やパルティア帝国との交易や戦闘を行いました。サルマタイ人の文化はスキタイ人の影響を受けつつも、独自の特徴を持っていました。


この時代の考古学的発見は、スキタイ人やサルマタイ人の生活や文化を理解する上で重要です。特に、墓地や住居跡から発見された遺物は、彼らの宗教儀式や社会構造を明らかにする手がかりとなっています。


### 2. ギリシャ植民都市とボスポラス王国の歴史


紀元前7世紀から、ギリシャ人は黒海沿岸に植民都市を建設しました。この地域は、地中海と黒海を結ぶ重要な交易路であり、ギリシャ人にとって魅力的な場所でした。ギリシャ植民都市は、経済的な拠点としての役割を果たし、地中海世界との交易が盛んに行われました。


代表的なギリシャ植民都市には、オルビア(現在のウクライナ南部)、ケルソネソス(現在のセバストポリ)、パントカパイオン(現在のケルチ)などがあります。これらの都市は、ギリシャ本土からの移住者によって建設され、ギリシャ文化と現地の文化が融合した独自の社会を形成しました。


紀元前5世紀には、これらの都市はボスポラス王国として統一されました。ボスポラス王国は、紀元前438年にスパルタコス家によって建国され、黒海北岸一帯を支配しました。ボスポラス王国は、地中海と黒海を結ぶ交易路の要所として繁栄し、その経済的基盤は主に農業と交易に依存していました。


ボスポラス王国はギリシャ文化の影響を強く受けており、ギリシャ語が公用語として使用され、ギリシャの宗教や習慣が普及しました。また、現地のスキタイ文化とも交流があり、スキタイの技術や芸術も取り入れられました。ボスポラス王国の都市は、壮大な建築物や公共施設が建設され、文化的な繁栄を遂げました。


ボスポラス王国は、紀元前1世紀にはローマ帝国の影響下に入りました。ローマ帝国との同盟関係により、ボスポラス王国はローマからの支援を受けつつ、独立を保ちました。この時期、ボスポラス王国はローマの文化や技術を取り入れ、さらに発展しました。


### 3. ローマ帝国との関係


紀元前1世紀から紀元1世紀にかけて、黒海北岸地域におけるローマ帝国の影響力が増大しました。この時期、ボスポラス王国はローマの同盟国となり、軍事的・経済的な支援を受けることで、ローマとの関係を強化しました。


ローマ帝国はこの地域を戦略的な要所とみなし、サルマタイ人や他の遊牧民族との関係を調整しました。ローマ軍はボスポラス王国の防衛に協力し、特に北方からのゲルマン系民族の侵入を防ぐための活動を行いました。また、ローマはボスポラス王国を通じて東方のパルティア帝国やシルクロードを経由した交易ルートを確保し、経済的な利益を追求しました。


ボスポラス王国はローマの影響を受けて、都市のインフラ整備や公共施設の建設が進みました。特に、都市の防衛施設や港湾施設が強化され、交易の安全性と効率性が向上しました。また、ローマ文化や技術がボスポラス王国に広まり、ギリシャ文化と融合して独自の文化が形成されました。


この時期、ボスポラス王国の統治者はローマ皇帝からの称号や特権を授与されることが多く、ローマとの関係が強固であることを示しました。ボスポラス王国はローマの同盟国としての地位を維持しながらも、一定の独立性を保ちました。

### 4. ゲルマン民族の移動と影響


紀元後1世紀になると、ゲルマン系民族であるゴート族がウクライナ地域に進出してきました。ゴート族の移動は、後の民族大移動の前兆となり、既存の社会構造や民族関係に大きな影響を与えました。ゴート族は地元の文化や習慣を取り入れつつ、自らの文化を広めました。


ゴート族は東ゴート族(オストロゴート)と西ゴート族(ビジゴート)の二派に分かれました。オストロゴートは黒海北岸地域に定住し、農業や牧畜を営む一方で、軍事的にも活動を行いました。ビジゴートはさらに西進し、ローマ帝国の領土に侵入していきました。これにより、ウクライナ地域はゴート族の勢力圏となり、ゴート文化が根付くことになりました。


ゴート族の影響は文化面でも顕著でした。彼らは独自の言語や宗教を持ち込み、地元の文化と融合させました。特に、ゴート族の金工芸品や建築技術は高く評価され、後のウクライナの文化に多大な影響を与えました。


さらに、ゴート族の移動は地域の経済や社会にも影響を及ぼしました。彼らは交易路を確保し、東西の交易を促進しました。また、ゴート族の軍事活動は地域の防衛力を強化し、外部からの侵入を防ぐ一助となりました。


### 5. 経済と文化の交流


紀元前後のウクライナの草原地帯は、東西の交易路として極めて重要な位置を占めていました。シルクロードを通じて、中国や中央アジアからの絹や香辛料が運ばれ、西方のローマ帝国や地中海世界との交易が行われました。この交易により、多様な文化や技術、思想が地域に持ち込まれ、発展の促進につながりました。


**交易と経済活動**


この時代、ウクライナの草原地帯は、遊牧民と定住民が共存する多様な経済活動が行われていました。遊牧民は馬や家畜を育て、定住民は農業や手工業を営んでいました。また、地域の主要な交易品には、穀物、家畜、毛皮、金属製品、宝飾品などが含まれており、これらが広範囲に渡って交易されました。


**文化交流と技術の伝播**


交易路を通じて、多くの文化が交錯し、新しい技術や思想が伝播しました。例えば、中国からの絹製品や製紙技術、中央アジアからの馬具や武器の技術がウクライナ地域に導入されました。また、ローマ帝国からの建築技術や農業技術、ギリシャの哲学や芸術が地域に影響を与えました。


**宗教と信仰の融合**


交易による文化交流は、宗教や信仰にも影響を与えました。ウクライナ地域では、地元の宗教や信仰が他の文化と融合し、新しい宗教観や儀式が生まれました。例えば、ギリシャやローマの神々が地元の神々と同一視されることがありました。また、宗教的な影響は、葬儀や儀式、祭りなどの日常生活にも及びました。


**都市とインフラの発展**


交易の拠点として、黒海沿岸には多くの都市が発展しました。これらの都市は、交易や経済活動の中心地となり、多くの商人や職人が集まりました。また、都市の発展に伴い、防衛施設や公共施設、港湾施設が整備され、交易の安全性と効率性が向上しました。


**まとめ**


紀元前後のウクライナ地域は、交易と文化交流の盛んな地帯であり、多様な文化や技術が交錯するダイナミックな時代でした。この時期の交流と発展は、後のウクライナの歴史や文化に大きな影響を与えました。


### 6. 考古学的発見と研究の進展


近年、紀元前後のウクライナ地域に関する考古学的研究が進展し、多くの新たな発見がされています。これらの発見は、当時の人々の生活様式や社会構造、宗教、交易活動などを理解する上で重要な手がかりとなっています。


**スキタイ人とサルマタイ人の遺跡**


スキタイ人やサルマタイ人に関連する遺跡が多く発見されています。特に、草原地帯に位置する大型の墓地や集落跡は、彼らの生活様式や社会構造を知るための貴重な資料となっています。これらの遺跡からは、金細工の装飾品や武器、馬具などが出土し、当時の技術や文化の高度な水準を示しています。


**ギリシャ植民都市の遺跡**


黒海沿岸のギリシャ植民都市の遺跡も多く発掘されています。これらの遺跡からは、ギリシャ風の建築物や陶器、彫刻などが発見されており、ギリシャ文化の影響が強く見られます。また、地中海世界との交易の痕跡も多く残されており、当時の経済活動の活発さを示しています。


**ボスポラス王国の遺跡**


ボスポラス王国の遺跡からは、都市の防衛施設や公共施設、港湾施設などが発見されています。これらの遺跡は、ローマ帝国との関係が深かったことを示しており、ローマの技術や文化が広まっていたことがわかります。また、ボスポラス王国の統治者の墓地からは、豪華な副葬品や碑文が見つかっており、当時の支配者層の権力や富を物語っています。


**ゲルマン民族の遺跡**


ゴート族に関連する遺跡も発見されています。特に、ゴート族の集落跡や墓地からは、彼らの文化や生活様式を知るための重要な資料が得られています。ゴート族の遺跡からは、独自の建築技術や金工芸品が発見されており、地域に与えた文化的な影響がうかがえます。


**新たな技術の導入と研究の進展**


近年の考古学的研究では、新たな技術が導入され、調査の精度や効率が向上しています。例えば、リモートセンシング技術やDNA解析、放射性炭素年代測定などが利用され、発見された遺物の年代や起源、製作技術などが詳しく解明されています。また、多くの国際的な研究プロジェクトが立ち上げられ、研究者たちが協力して地域の歴史を解明しようとしています。


**まとめ**


紀元前後のウクライナ地域に関する考古学的発見は、当時の人々の生活や社会を理解するための貴重な資料を提供しています。これらの発見と研究の進展により、多様な文化が交錯し、交流が盛んであったこの地域の歴史がますます明らかになっています。


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