君のやりたいことはよくわからないと言われ続けて
卒業制作研究の成績がBだった。卒制の授業にあたる単位は3つあって他の二つはAだったのだけどそれでもAかよとなった。それを思っていいぐらいは色々試した1年間ではあったと思う。
ちょっと引いて考えると、これまでも大体学校を卒業する最終年はこういう感じの評価を受けることが多かったように思う、これは結構あるあるなのか、自分の選択の勘所が悪すぎるのかはわからないけど。
ただ自分の中でこれは何かを指し示されているような気がしていて、おそらくこれは学習サイクルと世間のライフサイクルの乖離なのだと思う。
つまり、6・3・3+4で僕らは大学を卒業した社会人となるように「標準」設計されているわけだが、このサイクルと自分の興味範囲の移り方が絶妙に最後の1年で乖離しているせいでこの意識の齟齬が起きている。人間なんぞ、基本的に2年間も何かを学べばおおよそその場の空気には飽きてきて別のどこかに行きたくなるもので、小学校のクラス替えが2年ごとに起きていたのはとても絶妙なバランス感の設計だと今更ながら思う。バイトも2年目からは飽きるし、イケてるバンドも2年ぐらいで飽きる、逆接的に考えると僕らの何かへの愛着は800日の壁を越えれないので対人関係とかでそれを越えれた場合はとても大事にするべきだとも言える。
大学でも大体クラスは2年で飽きたし、3年目からは、大体自分で勝手に勉強してる時間の方が授業で学べることより遥かに多かったのは明らかだったので大学にそもそも期待していることは、工房施設と、空調とヒーター付きの便座と図書館ぐらいのファシリティで他はまあおまけだなと齢二十一にしてようやく悟ったわけです。それにしても大学は中高と違い4年目があるのでここまで明らかに批判されたり、疎外感を感じるとは。光陰は矢の如く人との関係を切り裂いていく。
まあそもそも高等教育で教員を当てにできる状況の方が貴重だと思っているので、勉学の面での価値を感じなかったのは仕方ないとして、問題は成績が低いと奨学金などに結構響きかねないということである。おかげさまで大学内の奨学生には1ミリもかすらない4年間でした。(逆にああいうのに引っかかれる人の器用さには圧倒的なリスペクトを持っている、お世辞抜きに僕は先生が気に入りそうな文章などを死ぬほど書きたいけど書けない人なので。)
これがBランクの卒業制作だ!
さて、自分の卒業制作は下記のリンクからも公表しているわけだが大学の絶対評価のシステムという前提で見た時にこれは果たしてBクラスだと思う人の方が多いのだろうか。(もちろん内容に関しては今も大反省中であるし、欠点だらけだが成長中の若人の制作という前提のうえお手柔らかに見ていただけると恐縮です。)
まあ評価など恣意的かつ、時代と状況に依拠するので議論のしようがないのだけどBランクになる論理はとても気になる。そもそも自分は公的な審査とか、わかりやすさ重視のコンペとか、画一的人材作成の為の競争(=受験勉強)がとても苦手なのでこういった評価には若干ナーバスになる傾向があるのだが、実際社会的信用がこんな偏った評価の上に成り立っているのだから仕方がない。
でも成績の評価ってある程度学生生活に影響する点があるので普通にプロセス開示して欲しいと思う。評価の基準をシェアしたら生徒側も考えるべき項目とか、論理構造が見えてくるので特にデザインのような実践的フィールドでは結構いい教育プロセスだとも思うんだが現実的なコストが厳しいのかそういうのなんか嫌って感じなのかはわかんない。
先日のPodcastで日本の女性の構造的差別について話した回で、女性が選ばれる性であることが、行動を暗に制限されていたり不当な競争に巻き込まれていることがあるという磯野真穂さんが本の中で指摘をされていた。
まさしくこの場合においても学生が選ばれる側の属性に入ることで、蛸壺化した領地の中で評価されるための玩具を生産するだけの場になっていることがその辺の美術大学の卒展を見れば一目瞭然だと思われる。
まあ、そもそも社会に規定されたサイクルに合わせて摩耗して角がサラッサラになっていく人材が評価されるような、学問機関に所属している自分の能力の足りなさがそもそもの要因だとも考えられるし、徹底的に自己責任化した方がいっそスッキリするのでこれを結論としておこうと思う。
このツイートの貼り付けに別にそこまで他意はない、他の人の作品の様子があるとわかりやすいかなと思っただけ。
大学院は二年間の設計なのでこういう自体は起きないことを願っている。というか流石に博士課程の人とかいるから学び続けられる状況と信じたい。
ここまで一気に書いて怒りのエネルギーは人に行動を起こさせると実感。
それではまた今度。