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ゲームの中の遊びと世界の中の遊び
ゲーム、バーチャル上での人の振る舞いというものについて個人的に最近とても興味を持っている。ここでいうゲームは主にテレビゲームの話のことで、一口にテレビゲームといえどその中にはRPGみたいに一つの大きな目的、ボスを倒すとか世界を救うとかに向かって進めていくものもあれば、あまり明確な目的が建てられてはないけどプレイヤー自身が能動的に遊び方を作っていくようなゲームもある。前者のように大きなパーパスがあるゲームに対して後者の細かなタスクが繰り返されるゲームではプレイヤーが思いもよらない使い方を発掘、創作しそれがゲームそのものにも影響を与えるようなことが起きていたりする。言い換えるとそれは、世界という枠組みの中で個人が戦術的な創作によって遊びを作る行為だとも考えられたりする。
具体的な例を見ていくと、パンデミックの最中で流行した「あつまれどうぶつの森」(以下あつ森)は大雑把に言うと、無人島に移住した主人公が島を開拓するために、住人である動物たちのお使いを聞き、手伝いながら島を自分好みに変えていくことで島の住人を増やせたり、友人を招いたりするようなゲームだが、興味深いことにそのゲームの中で発生するクエスト以外にも無償で島の手入れをしてくれる人が現れだしたりしている。Wiredの記事には、タイラン・バッテンと言うプレイヤーが組織した"WeedCo"のような無償でどうぶつの森内の庭掃除や雑草の駆除を行ってくれる”会社”があると言う話が書かれている。
彼らは基本的には無償で、雑草の駆除を行う。自分たちで設定した制服や社名をあしらったキャップをかぶり、SNS経由で”仕事”の依頼を受ける。
たまにプレイヤーからアイテムなどを受け取ることはあれど基本的には無給無報酬で時間を使って人の庭掃除をする(それもゲームの)これは一見ちょっと変わっているように見えるかもしれない。でも考えてみれば近所の足腰が弱った一人暮らしのおばあちゃんの家の庭掃除を無償で手伝うと言うことはまだ考えやすいかもしれない、困っている人がいるらしいから自分の余力を使って人に奉仕するというのは人間にとってそこまでわからない行動ではない。彼らが雑草を引き抜くと言うのはおそらく金銭や物理的な報酬以上の価値を感じる何かが存在するからでそれは、人の役に立っているという実感や、無心でできる雑多な作業というある種の「やりがい」かもしれない。また有償で写真を撮ることをサービスとして提供する人も存在しこれは有償といえどゲーム内の通貨や報酬のため現実の通貨としては無給の状態でありボランティアに近い。
ここで興味深いのはゲームの世界でも、人のために何かをすると言うことが自分の利益を省みず行われていることである。ある意味、利他的な労働のあり方が通貨でなく物(ゲーム内の通貨も含む)の贈与によって行われていると言うのはこのゲームのプレイヤーに限らず面白い話ではないだろうか。ここで言いたいことは何も利他的な奉仕の精神を称賛することではなく、単純にゲームの中で自分の利益だけを考えずに遊び始める人が現れていると言うことの面白さである。
これは、フィジカルの世界から離れていることで、金銭を得る欲求が消失したから起きることなのか、ゲーム内のアバターによるコミュニケーションと言う特殊な状況が作っている現象なのかはわからないけど少し飛躍すれば、『奉仕的な労働が人間の社会活動基盤として成り立つのか?』といった問いにも繋がるかもしれない。さて、記事での情報は多くあるのだが自分自身が未プレイなのもあり、あつ森の話はこの辺にして別のゲームでの面白い遊び方や現象も見てみたい。
関係性を深めないコミュニケーション
「風ノ旅ビト」という少し昔に話題となったゲームがある(確か自分がプレイしたのは2014年ぐらい)その制作会社が最近、(といっても2年前ぐらい)スマートフォン向けのゲーム「Sky」というタイトルをリリースしていた。中身的には一応ストーリーと目的がありRPGに位置付けられるものなのだがそこでのプレイヤーの挙動や設計が興味深かったので少し考察したい。
特に興味深いと感じたのがこの二つの項目である。
・フレンド申請のために必要となるギフト
・関係性が作れるようで作れないコミュニケーションの機能
フレンド申請のために必要となるギフト
一つずつ簡易に説明していく。まずフレンド申請について、Skyの世界ではそこらじゅうに他のプレイヤーが歩いている。ただそのプレイヤーとフレンド登録をしようとすると話しかけるだけでは不十分で、アイテムを相手にあげる必要があるのだ。しかもアイテムは消耗品で、かつどちらか片方があげれば完結するのでどちらかが必ず損をする形になるのだ。これはまさに贈与的な行為である、アイテムをあげることで相手に対しての優位性を示すことにも、受け取ることによって負い目を感じることにもなり相手を手助けしないといけないような後ろめたさを感じることになる。
フレンドになった相手にはニックネーム(任意)をつけることができログインボーナス的なシステムも存在する、だけどそれ以上のボーナスがあるかと言われるとかなり少ない。しかもそもそもサーバーの選択やワールドなどの概念がないので必ずしもそのフレンドと同じタイミングでプレイできるわけでもなくゲーム内で個別の人と深い関係性が作れるかといえばかなり疑問である。にも関わらずフレンドになるにはモノをあげるコストがかかると言うのはとても面白い。
関係性が作れるようで作れないコミュニケーション
それ以外にもメッセージをゲームの世界に設置することができるのだが、これも一方通行の会話であるし誰にいつ届くかも不明なものである。しかしその匿名性がむしろプレイヤーの遊びを誘発する仕掛けにもなっていて、例えば誰に当てて書いたものかもわからないようなメッセージや、謎の暗号や偉人の名言などそれぞれ思い思いの使い方がされていたりする。メッセージを届けると言う目的としては全く機能しないこのコミュニケーションは、古い営みで言えば海に小瓶を流すようなものかもしれない。誰に届くかもわからない手紙だからこそ内なる感情や、伝えにくい言葉が書けるのではないだろうか。このゲームの中ではほとんどがこのような一期一会の出会いを産むために設計されているように感じる。フレンド登録したとしても繋がりを深められるわけでもなく、メッセージを特定の相手に届けることさえままならない。オフラインの世界では無用や非合理とも言われてしまいそうな設計がゲームという架空の世界だからこそ意味がある設計に感じるというのはとても面白い。他にもこのセレンディピティを演出するための小道具として、利用時間が限定されているチャットスペースや、手を繋いで歩き回る協力プレイの方法などもあるが全てが言葉で説明できるゲームでもないので、今回は記載せず是非プレイする楽しみとしておいて欲しい。
さてここまでゲームの中で自由な発想を展開するプレイヤーたちの創意工夫を見てきたが、これをフィジカルなオフラインの世界の中で行うようなことや、創造的な生活へというものはできるのだろうか?ゲームの中の世界での遊びがフィジカルの世界での遊びへと展開することはどのような意味を持ち得るのかについては続きとしたい
それではまた今度。
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