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#7 すべてはこの電話で始まった。

 2012年3月20日火曜日。横浜本社で仕事をしていると、夕方に携帯電話が鳴った。「はい、ネクスト・ワン宮崎です」。「はい、ネクスト・ツーです」。電話をかけてきたのはトヨタ自動車の友山茂樹常務役員(副社長を経て、現在は執行役員Chief Production Officer)だ。
 ネクスト・ワンという社名の由来は、その昔、喜劇王チャップリンが記者に「あなたの最高傑作は?」と質問された時に「Next One(次回作)」と答えたという逸話に由来する。つまり、ネクスト・ワンのワンは「1」という意味ではない。
 そもそもこの言葉は豊田章男さんや友山さんたちが若い頃に設立した業務改善支援室(別名Team CS)のスローガンであり、そこから拝借した社名である。だから、ワンが「1 」じゃないことは当然ご存知だ。でもこの「Next Twoです」という言い回しがすこぶるお気に入りのようで、昔からいつも僕らの通話はこのやり取りで始まる。そういえば、最近とんと電話が来なくなった。お元気でしょうか?(笑)
 さて、この日の電話の用件は、「来週、バンコクモーターショーがある。お前は取材に来ないのか?」というお話。そんなこと言われても、僕はモータージャーナリストではないので呼ばれてない。「2月からタイトヨタが導入したsmart G-BOOKのプレゼンをモーターショーでやるんだけど、その様子を動画で撮ってくれ!」「えっ、動画ですか?」「今はデジカメで簡単に撮れるだろ!」「いやいや、ちょっと待ってくださいよ。仕事で受けることをそんないい加減にはできないですよ。カメラマン手配しますね」「そんな予算はないぞ、お前がやればいい」。まじか!
 とはいえ、冷静にこの友山語を翻訳すると「久しぶりにバンコクに来い。酒でも飲もう。」という風に読み取れる。きっと、新しく改装したタイの現地法人DMAP(Digital Media Asia Pacific Ltd.:現在はToyota Connected Asia Pacific Ltd.)のオフィスを自慢したいに違いない。
 ならば、望むところである。すぐさま、カメラマンの元田敬三くんに電話して、どの機種のカメラや機材をレンタルすればいいかを相談する。そして、機材の予約とエアチケット、宿泊先の手配である。出発は5日後の日曜日の夜。そんなに準備期間はない。

そうだ、ミャンマーに行こう!

 そして、翌日の水曜日。ふと、ひらめいた。「バンコク行くついでにミャンマーに行ってみよう!」と。
 ちょうどそのちょっと前、多分、日曜日の朝にやっていた「報道ステーションSUNDAY」だったと思うけど、ベトナムからカンボジア、タイ、そしてミャンマー、アンダマン海(インド洋の一部)へ抜ける南部経済回廊(アジアハイウェイ1号線の一部)の特集をやっていた。その番組で、西側の入口になるミャンマーのダウェーとバンコクまでの距離は陸路でわずが340キロだなんてことを言っていたのを思い出したのだ。
 340キロなんて、東京と名古屋くらいの距離である。多分、バンコクから高速バスみたいなのが出てるだろうから、それでいけば、日帰りできるだろう。そう、僕の最初の目的地はヤンゴンではなく、そこから600キロ南に位置するダウェーだったのだ。
 これはそのずっと後になって知ったことだが、南部経済回廊はミャンマー国内の部分、約160キロが現在でも整備できておらず未開通。もちろん、当時から道路はあるが恐ろしく凸凹のひどい道路で、さらに途中には銃で武装したカレン解放同盟が占拠しているエリアがあるため、とっても危険。実際に2016年、このルートでダウェーから国境の町キキを通って、タイのカンチャナブリまで車で行ったJ-SATの西垣充代表(ミャンマーで、ものすごい有名人です)が道路も未舗装でひどいし、カレン解放同盟に通行料を徴収されたり、ビザが必要だったり、いろいろ大変だったと体験談をYangon Nowの記事に投稿されている。到底、初めてミャンマーを訪れる糖尿男が通れるルートではなかった。ましてや日帰りなんてとんでもない話だ。(笑) 

南部経済回廊

これは神の啓示だ!

 翌日の木曜日は撮影用の機材をレンタルし、その使い方などをテスト。着々と旅行の準備は進む。同時に、初めて訪れるミャンマーへの期待で胸が膨らむ。「どんなところなんだろう?楽しみだなあ」。
 このとき、僕がなぜミャンマーに興味を持っていたかというと、その年のお正月に大学のゼミの同期でADB(アジア開発銀行)に勤務していた木村知之くんと飲んだ時、「どっかアジアでピザ屋とかやろうと思っているんだけど、どこがいいかな?ベトナムなんてどう?」と相談したところ、彼が推薦してくれたのがミャンマーだったのだ。
 彼曰く「アジアは今、どこに行っても中国資本が牛耳ってる。外食ビジネスは日本からの進出も多いよね。だから、めちゃくちゃ競争が激しいよ。今からだったら、もう遅いんじゃない。ベトナムなんてまさにそう。そういう意味ではミャンマーがいいじゃない。あそこはまだ、何もないし、これからの国だから...」。当時はミャンマーについては日本では全く注目されていなかった。「アジア最後のフロンティア」としてブームになるのはこの年の秋くらいからであった。どこに国があるのかもわからなかったし、せいぜい知っているのは、アウンサンスーチーさんとビルマの竪琴くらいだった。「ふーん、ミャンマーねぇ」。その席では僕はあまりミャンマーという国に興味を持たなかった。
 それがたまたまテレビ番組で「南部経済回廊」の話を知る。バンコクから海路だとマレー半島をぐるっと回って、マラッカ海峡を通過してインド洋に出ないといけないので、日数がかかってしまうけど、南部経済回廊を使えば、トラックを使って陸路の1日でインド洋側の港ダウェーまで物資を運べる。だから、タイで作った製品や部品を中東やヨーロッパに向けて輸出が簡単になる。単純に、「ミャンマーすげー。これからすごいことになるんじゃない?」と思った矢先に、冒頭の友山さんから電話である。「これはミャンマーに行け!という神の啓示に違いない」。僕はこの時、猛烈に興奮していた。

もしかして、ビザとかいるんじゃないの?

 そんな興奮の最中、ふと嫌な予感が頭をよぎった。そうビザだ。僕はそれまでヨーロッパ各国や南アフリカ、中国、そして東南アジアではタイ、シンガポールには行ったことはあったが、いずれの国もビザ免除の国ばかりだった。確か、後進国の場合、ビザとか必要な国があったよなあ。嫌な予感は的中した。
 ネットで調べてみると、どうやらビザが必要らしい。「えっ、ビザってどうやったら取れるんだろう?戸籍謄本とかいるのかなあ?」。在日本ミャンマー大使館のホームページを見つけ、チェックしてみる。大使館は北品川にあるみたいだ。当時、弊社の東京オフィスは品川にあったので、すぐ近くだ。申請の受付は平日の午前中で、翌日の午後3時過ぎに交付か。「うん? 明日は金曜日だから給付は月曜日。でも、出発は日曜日だから、無理じゃん」。目の前が真っ暗になった。神の啓示のはずが、突然、ぷっつりとミャンマーとの縁が途切れてしまった。「いや、何か方法はあるはずだ!」。もう夜遅い時間になっていたので、とりあえずは寝て、明日の朝、大使館に電話してみよう。神様がなんとかしてくれる。僕はまだ諦めていなかった。
 翌朝は早起きして、品川のオフィスに出社。そして、朝一から何度も大使館に電話するも、話中でいっこうに繋がらない。「こりゃ、まずいな!」。そこで僕は奥の手を使うことに。僕が電話したのは政治家の前原誠司くん。彼はその時、国家戦略担当大臣だったけど、その前は外務大臣だ。なんとかしてもらおう!
  前原くんは大学時代からの親友。一回生の時から同じ野球チームでプレーしてたし、ゼミも同じ高坂ゼミに在籍。彼の初選挙の時は会社を2週間休んで選挙応援に行った仲である。
 電話で、ミャンマーに行きたいけど、ビザをどうしたらいいのかわからない。前外務大臣の力で助けてくれ!と泣きついてみた。彼曰く「公務じゃないし、そんなの無理や。実務のこともわからんから、ゼミの後輩の貴島善子さんに相談してみたら?」との返事。「そうだ、貴島がいた!」。彼女はバリバリの現役外務官僚。こういう時は前外務大臣なんかよりよっぽど頼りになる。早速電話してみた。
 「はい、はい、了解です。ミャンマー大使館に私が問い合わせしてみるので、ビザの申請番号を教えてくださいましー」「いやー、これから申請したいんだ。タクシーで行けば10分もかからない」「えっ、出発はいつですか?」「明後日の日曜日」。電話口の向こうが凍りついたのが伝わってきた。
 「宮崎さん、そりゃ無理ですよ。明日は土曜だから、まずビザは出ないです。一か八かで申請したとしても、パスポートを預けることになるから、もし、明日、受け取れなかったら、タイへも行けなくなりますよ」「いや、それは困るな」「じゃあ、ちょっと待っててください。バンコクでビザが取れないか、調べて折り返します」。
 ほどなくして折り返しの電話がきた。「バンコクでビザ、取得できます。エクスプレス・ビザっていうのだと、手数料はちょっと高いけど、即日交付です」。
 やったー!ミャンマーに行ける。「月曜の朝、バンコクに着いたら、その足でバンコクのミャンマー大使館に行って申請してください」。こうして、僕の初のミャンマー上陸は首の皮一枚で繋がったのであった。


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