インフルエンザ感染による死者は1万人でもあまり話題にならず、コロナウィルス感染による死者が100人で大騒ぎするのはなぜなのか?

 表題のような疑問であるが、まず、これが「考える価値がある論点かどうか?」ということを考えることが大切である。
 「もうすでに大騒ぎしているのだから、今さらそんなことを考えても仕方がないではないか?」という声がどこからともなく聞こえてきそうなのだが、政府なり地方自治体なり大マスコミなりが上記のような問題意識を持ち、「現在の日本の状況は、コロナウィルス感染に関しては大騒ぎのし過ぎで、行き過ぎた自粛はやめるべきだ」という結論にたどり着いたなら、今のようなコロナ不況・コロナ恐慌といった状況が大きく変わる可能性がある。
 だから、論点の設定としてはわりあい筋がいい方なのではないか。と言うより今のような状況では、必要な論点ではないだろうか。
 
 まず、日本の現状をざっと見てみる。
 交通事故で3千人〜5千人、インフルエンザで1万人、自殺で2〜3万人の日本人が毎年毎年死んでいる。それに対して新型コロナ肺炎による死者は、この病気が日本に登場してから通算でまだ100人しかいない(2020年4月半ば現在)。
 この現状をテレビや新聞などのマスコミはほとんど報じていない。もしかしたら報じているのかもしれないが、一般国民にわかるように報じてはいない。
 新型コロナ肝炎の感染者数やそれによる死者の数を大きな見出しにして報じているのとは対照的である。

 どうしてこういうことが起きるのだろうか。
 まず考えられるのは、「新型コロナのことを報じるとテレビの視聴率がとれたり新聞が売れたりするから」という解答である。新型コロナ騒動によって春の高校野球が中止になったり、プロ野球の開幕が遅れたりしてそれが新聞の売り上げに悪影響を与えていることは明白なのだが、そういったことをマスコミ各社は考えていないのだろうか。あるいは、行き過ぎた自粛によって不況になったり恐慌になったりすれば、それが新聞やテレビの広告費に深刻なダメージを与えることを予想していないのだろうか。
 もしかしたら、目先の視聴率とか売り上げだけを考えてこれらのことを、本当に考えたり予想したりしていないのかもしれない。
 だとすれば、あまりにも視野が狭い。だが、その可能性もありそうだ。

 それともう一つ大事なのは政府の対応である。
 3月から政府の要請による小中高等学校の休校が続いているが、どうして休校する必要があるのか、わかりやすい根拠が示されていない。
 まだ、未成年者の新型コロナ肝炎による死者は出ていない。「死者が出てからでは遅い」という意見が聞こえてきそうだが、交通事故やインフルエンザなどによって毎年かなりの数の未成年者が死んでいる。新型コロナ肝炎だけを特別扱いすることによって大きな弊害が生じるのではないだろうか。
 この休校措置が、現在の自粛の流れが作られる要因としてはかなり大きな部分を占めていたと思われる。

 京大の藤井教授は「最低の政府というのは自粛を要請しつつ保証をしないという政府であります。これは国民を見殺しにするに等しい」「過剰自粛には極めて恐ろしいリスクがある」と述べている(参考:ユーチューブ日記 コロナウィルスに関する藤井聡教授の動画)。
 今回の騒動で明らかになったのは、一言で言えば正体不明の空気によって支配されている日本のマスコミや政府・地方自治体の体質・あり方である。
 そこで働いている人たちが新型コロナだけを特別扱いして視野の狭い対応をするのは、結局「人間は必ずいつか死ぬ」「自分を待っているのは永遠の無音・暗闇の世界である」ということを忘れたくて忘れているふりをしているからではないだろうか。
 政治家や言論人は、宗教とか哲学とか文学とかあるいは独自の幻想とかそういったものに基づくその人なりの死生観とか、あるいは、そういうものを持ち合わせていない弱く小さな人間であるという真摯な自覚が必要なのではないか。死生観と言っても別に大層なものでなくてもいいと思う。例えば、萩原健一みたいに「立ちしょんべんしているところをナイフで刺されて死にたい」といったことでも立派な死生観である。
 でもそれは政治家や言論人に限ったことではない。新聞や雑誌を買ったりテレビを見たり選挙の時に投票したりする国民一人一人にとって必要なことなのである。それこそが、一番根本的な新型コロナ対策なのだろう。
 最後に突然教育の話になるのだが、そうした死生観とか弱さ・小ささの自覚を持つためには、高校時代に文学を学ぶことも一つの有力な手段である。だから、今進められている高校の国語改革には反対である。

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