心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その30

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 作者の自己紹介等:自己紹介とnoteの主な記事
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その29

 日暮里研究会に入る
 大学の将棋部にも今一つなじめなかったので、外に居場所を求めて日暮里研究会というアマチュア強豪などが参加していた研究会に入った。
 大学に入った当初は、将棋ばっかりやっていた頃の自分に戻らないでもう少しバランスのとれた人間になりたいとけなげに考えていたものだが、どうもうまく行かず、高校生の頃に新宿天狗クラブに通ったり、アマチュア順位戦のメンバーだったりしていたああいう路線に戻ってしまった。
 せっかく慶応大学にはいったのだから、もっといわゆる大学生らしいことをしたらいいようなものなのに、いったい自分は何をやっているんだろうか。と思うのだが、どうも他にいい居場所がなかった。
 日暮里研究会の会場は、日暮里将棋センターという将棋盤が20面くらいある中規模の将棋クラブで、そこは増井美代子さんという中年の女性が席主をしていた。参加者は、学生強豪、社会人のアマチュア強豪、プロ棋士、女流棋士の4者だった。
 男性のプロ棋士は、高橋道雄さん一人だけ。女流棋士は蛸島彰子さん・中瀬奈津子さん・兼田睦美さん、神田真由美さん(女流棋士は4人とも旧姓)が参加していて。それ以外は学生強豪と社会人のアマチュア強豪で、あの有名な小池さんも入っていた。
 小池さんは、この頃2年連続アマ名人になる直前の充実した時期だったが、研究会では今一つ本気が出ないのか、抜群の成績とは言えなかった。
 研究会はリーグ戦形式で、持ち時間が40分、切れると秒読み30秒だったように記憶している。時間を測るのにチェスクロックを用いていた。小池さんは、形勢が不利になると「ほら、切れちゃうよ」と言いながらチェスクロックを持ち上げて相手に見せたり、形勢不利だった局面から挽回すると「頑張ってますよ」と言って胸をはったりして、少しマナーが悪いが憎めないところがあった。
 研究会が終わる時に駒を片づけない人がいると「片づけねえのかよ」と叱りつけたりする筋が通ったところもあり、人あたりのいいキャラクターでみんなから好かれていて、新宿天狗クラブにいた頃と変わっていなかった。
 研究会が終わると近くのスナックに行って酒を飲み、語り、カラオケを歌った。将棋クラブ席主の増井さんも含めてほぼ全員が参加していたような気がする。16歳の櫛田君も参加し、未成年なのでジュースを飲んでいた。中にはスナックに行っても詰将棋を解いている人がいて、「暗い」と批判されていた。
 飲み会では、たまに増井さんがほろ酔い加減で機嫌のいい時、足を高く上げるラインダンスみたいな踊りを初め、小池さんはそれを見て手で目をふさぐようなポーズをとり、「うー汚ねえ足だ」とうめくように言ったものだ。すると増井さんは小池さんのことを、軽くぶつような動作をした。
 自分は、増井さんから「日暮里のジュリー、沢田研二の歌を歌いなさい」と命令口調で言われると大喜びで沢田研二の歌を振付入りで大きな声で歌い、なぜかそれがそれなりに受けていた。
 現在でも近所のスナックでアルバイトの女の子から「筒美さん、私○○という歌が聞きたい」と言われると大喜びでその歌を歌う。女の子は本当に聞きたいわけではなく商売で言っているとわかっていても嬉しいものだ。それによってカラオケ代1曲200円をとられてしまうのだが、それでも楽しい。
 「世の中の男の悩みのほとんどはスナックにいけばたちまちなくなる」という金言があるそうだが、これはなかなか含蓄のある深い真実を言い表していると思う。
 櫛田君は、都名人や支部名人をとって有名になり始めた時期で、「将棋しかできない人がプロ目指さないなんて社会的損失だよ」といった言葉で何人かの人から奨励会入りを薦められていた。でも、そう言われてすぐに奨励会に入ったわけではなく、実際に奨励会に入ったのは、その頃から約2年後である。
 研究会は毎回同じ曜日に開催され、次の日はだいたい出席をとる必修の語学の授業があった。二日酔いで授業に出席し、なんとか居眠りしないで授業を受けるように頑張り、単位を落とさずにすんだ。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その31

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